末盧國は日本本土の上陸地点です。実はここに、多くの人を悩ませる謎があります。
末盧國以降の行程は陸行になるのですが、末盧國で船を降りる理由がはっきりしないのです。
出発地点の郡から朝鮮半島の海岸沿いを7000余里も船で移動しています。
末盧國以降の1000里に満たない距離を、船を使わず陸行するというのは、次に訪れる国が海岸沿いであるのなら考えにくい行動です。
一部の人は、それは倭国が中華帝国の庇護の下にはいったことを民衆に知らしめるためにわざわざ陸をあるいた、と主張しています。しかし次の(非常に重要な)一文がそれを否定します。
>草木茂盛行不見前人
草木盛んに茂り前の人が見えず
前の人が見えない様なのに、人々に知らしめる為もないのです。
人々に知らしめる為なら、国から国へ船ですばやく移動し、長くあるいは多くの人に知らしめるべきなのです。
何故わざわざ陸行したのか?
ここから導き出される結論は、次の国は海岸沿いの国ではなく内陸の国である、ということです。
私が末盧國を、今の松浦川流域、唐津市に比定したのは、このような理由です。
つまり唐津市から、松浦川に沿って南東へ内陸方向に進んでいったのです。
そしてこの道は、今でも唐津街道という名で、唐津市(そしてその先の中華帝国)と佐賀市を結んでいる重要な道路でなのす。
張政は急いでいました。そのために邪馬台国へ最も近いルートを通ることになったのです。
次は伊都國2です。
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