記されている邪馬台国までの行程をたどると
水行10000余里、陸行700余里(不彌國2~邪馬壹國の距離は0里として)
なのがわかります。
これは
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
>自郡至女王國萬二千餘里
という記述と少しずれています
水行10000余里、陸行700余里
水行10日、陸行1月
水行は1日=1000里、これは1日で進むことができる距離を1000里とし、その距離を出したとも取れます。
問題は陸行です。700里を1月=29日というのはかかりすぎです。
別の記述から1日に進める距離はやく33里~50里、つまり100里を2~3日で進む程度であるとわかっています。
なので700里は多くても21日程度の距離です。
いったんこちらは置いておいて
水行10000余里、陸行700余里
12000余里
をみると1300里程足りないことがわかります。
萬二千餘里のでどころは、はっきりしません。陳寿が算出したとも、別の資料に依ったとも言われています。
わたしはこの2つのずれは、梯儁のルートと張政のルートの違いなのではないかと考えています。梯儁も福岡平野から久留米を抜けて筑紫平野の邪馬台国へ至っていた可能性もあります。それが12000余里もしくは水行10日陸行1月といった記述の元になっているのかもしれません。
しかし実際の所はよくわかりません。
また私は、梯儁の報告書とか張政の報告書とかと、見てきたような記述をしていることろもありますが、どちらにどのような記述があったのかなど私に知る由もありません。
ですから私が梯儁の報告書に~などと書いたものも本当は張政の報告書によるものだったのかもしれません。
ただ重要なのは、このような2つのルートの記述を同じルートの記述であると陳寿が勘違いしてしまったことです。
いえ、もしかしたら陳寿は勘違いしていたわけではないかもしれません。陳寿は別のものであることが解っていたのかもしれません。しかし正確に不確かなものを書くより、より解りやすく纏めた記述を陳寿が求めた結果なのかもしれません。今となっては知るすべのない話です。
陳寿とちがい、あまり纏まっていませんが、この辺りで一旦筆を置こうと思います。
ありがとうございました。
’07/07/07
杉森 良博
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