2007年7月12日木曜日

投馬國2

別に2にする必要はないのですが、便箋的に投馬國2とします。
投馬國の記述は以下の文のみです。

>南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至る投馬國、水行20日。官は彌彌、副は彌彌那利。5万余戸。

これを正しく読むには次に続く文が必要なのです。
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

例の“水行10日陸行1月”です。

それはさておき、まず投馬國とは何かのか、というと「南に20日行ったところにある1つの国」です。
“20日”ということから、これは魏の使いが行ったのではなく伝聞情報であることが解ります。
どこから南へ20日なのかはよくわかりません、不彌國2なのか邪馬台国なのか奴國2なのか、はっきりしません。
わかるのは邪馬台国連合の人が、南に20日のところの国もわが国の一部だ、と言っていたことです。

おそらく邪馬台国連合の人は、自国が魏に朝貢しているように、南に20日のところの国が自国に朝貢しているのだ、と主張したのでしょう。
このあまりにも背伸びしすぎた主張は聞き入れなかったのでしょうが、それでもこの国を邪馬台国連合の1つと思わせてしまったようです。

陳寿は迷います。起点のはっきりしない南に20日というところの国、しかしながら官名などはわかっている国をどうすべきなのかと。
そして邪馬壹國の1つ前にこの国の記述を入れてしまったのです。

誠実な陳寿にとって、水行二十日は不確かな情報です。だからこれを補うのが件の水行十日陸行一月なのです。
つまり投馬國を除いて、郡から邪馬台国までが水行10日陸行1月であり、これから投馬國までの水行20日を推定できるのではないでしょうか?という陳寿の記述なのです。

投馬國とは邪馬台国連合と交流のあった国、私は琉球(沖縄)が投馬國だと考えています。

琉球は当時すでに中華帝国に知られている存在でした。
しかし琉球語は唯一日本語と関連を持つ言語であり、中華帝国より日本(倭国)との関係がより親密だったことが伺えます。
ゆえに当時の倭国にその存在の記述があることはそれほど不自然なこととは思いません。
またより南方の国の情報(裸国黒歯国)は、この投馬國(琉球)からの伝聞情報だったのではないかとも私は考えています。
これで水行20日の投馬國と、水行10日陸行1月という記述がなぜ記されているのか、という2つの謎が一気にとけました。

次は邪馬壹國♪

# 50000余戸は琉球にとっては多すぎる人口なのだが、伝聞情報として割り引くべきか? 現在沖縄人口は150万人、江戸末期には15万人程度。1戸8人で40万になる、1戸3人か、戸と人の間違いとも取れる。そもそも伝聞情報としての不確かさや、倭人がわざと大きくいっている可能性も否定できないか。

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