2007年7月12日木曜日

邪馬壹國2

不彌國2こと吉野ヶ里の南、筑後川の流れる筑紫平野、こここそが70000余戸の大国、邪馬台国です。

たどり着けば、すごく真っ当な比定地であることがわかります。
当時は福岡平野より筑紫平野のほうが人口が多かったことが知られています。これは福岡平野の奴國20000余戸より筑紫平野の邪馬壹國70000余戸のほうが多いことと一致します。
また絹の記述が当時九州にしかこれが存在しなかったことと一致します。
記述されている植物が、関西のそれではなく九州のものと考えられることとも一致します。
郡から女王國まで120000余里という記述も、九州内に邪馬台国があることを示しています。

そして今回、なぜ末盧國から水行ではなく陸行になるのか。小国の伊都國が大権力の国とされているのはなぜか。奴國から南東に邪馬壹國に行かずに、なぜ小国の不彌國によったのか。というところが納得できるかたちで解消したのではないでしょうか。

そして今まで、方位が90度間違えているとか、45度ずれているとか、距離が間違えているとか、いろいろ言われてきましたが、まったく間違えていないと解釈してごく自然に筑紫平野=邪馬台国にたどり着けることが解ったのではないでしょうか。

私は陳寿が、そして倭国の報告書を記述した人が、非常に誠実にかつ正しい記述を後世に残していたのだと確信しています。
福岡平野の奴國やその近隣の国の記述。邪馬台国までの行程。そのどれもが、現在知られている当時の状況と矛盾することなく三国志に記されています。
そしてこの三国志を記した陳寿がいかに誠実であったか、本当に頭の下がる思いです。

一方それを、勝手に間違えているなどと主張してきた日本人は、いまだに背伸びをしている猿なのではないか、という気がして悲しくなります。

次は、もしかしたら蛇足

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

『三国志(魏志倭人伝)』を正しく読めば到達します。
中国正史の勘違いは「国名」としているものは、倭人の国情説明文言の端々です。