2007年8月3日金曜日

比定地まとめ(改)

投馬國=久留米(注1)を入れての改定です。
E國=琉球は行程から外れた国ですが、それ以外の国々は2つの行程をよくあらわしているのではないでしょうか。

末盧國      唐津市、松浦川流域
伊都國      前原市あたり
奴國       福岡平野、那の川流域
不彌國      宇美町、須恵町あたりか?
投馬國      久留米(注1)

A國(末盧國2) 末盧國
B國(伊都國2) 小城市または多久市あたり
C國(奴國2)  佐賀市あたり
D國(不彌國2) 吉野ヶ里

E國(投馬國2) 琉球(沖縄)

邪馬壹國     筑紫平野、筑後川流域

8/16修正
注1)久留米の中心から小郡市や三井郡、甘木朝倉あたり(北野地域)

投馬國3

謎の国、投馬國。
琉球という比定は間違えていないと今でも思っているものの、やや突飛な感じをうけるのも確かでしょう。
行程から外れている投馬國が邪馬台国の前に入ってきているというところが引っかかります。
なぜ陳寿は行程記事の間に水行20日の投馬國を織り込んだのでしょうか?

その答えの前に、いわゆる3つの行程距離から考察してみましょう。
「12000里」と里程の合計「10700里」と「水行10日陸行1月」です。
それぞれ梯儁(ていしゅん)、張政、倭国からの伝聞情報と私はみているのですが、
それはこの3つを陳寿は競合しあうものではなく補間しあう情報とみて併記したのだろうと考えています。
とすると、梯儁はよく邪馬台国まで行っていないのではないかと云われることもありますが、邪馬台国まで行って12000余里という数字を報告したと考えるほうが自然ではないでしょうか。
ところで梯儁の行程は、伊都国=前原、奴国=福岡平野、ですので、邪馬台国のある筑紫平野中下流域にいくには、途中福岡平野の南の久留米(注1)を通ることになります。

ところが久留米の記述がないように見えます。一部の人が久留米に邪馬台国を求めるのはこのためでしょう。
しかしちゃんとあるのです、そう50000戸の大国、投馬國です。
「水行二十日」はどうした?といわれそうですが、これは違うのです、梯儁の報告書ではないのです。

ここで張政の行程をもう一度書きます。
末盧國から南東500里でB国(伊都國2)、南東100里でC国(奴國2)=佐賀平野の大国、東100里でD国(不彌國2)、そして南に邪馬台国です。
張政の行程には、投馬國に対応する国がないのです。

そこで陳寿は、朝貢記事である水行二十日のE国=投馬國2=琉球の記録から、これを投馬國としたのではないでしょうか。
そして梯儁の報告書にある順に従い、邪馬台国の1つ前にこの投馬國の記述を入れたと考えられないでしょうか。
南水行20日、5万戸を擁する謎の大国のできあがりです。

これで琉球に50000戸を求める必要がなくなりました。
50000戸は投馬國=久留米(注1)の人口です。仕官情報などもおそらくこちらでしょう。
水行二十日はE国=投馬國2=琉球の行程(伝聞情報)です。

どうでしょう、いままで「謎多き」投馬國でしたが、これで梯儁のルート、張政のルート、そして陳寿の記述が1つに繋がったのではないでしょうか。

8/16修正
注1)久留米の中心から小郡市や三井郡、甘木朝倉あたり(北野地域)