2007年7月23日月曜日

日程と里程

ある方からの指摘から一部考えのかわるところがありましたので追記します。

『投馬國2』にて、水行10日陸行1月の文を投馬國への水行20日を推定するための補足資料としましたが、このとき私の理解では「水行10日陸行1月」は中国側からの情報ではないかと思っていました。
しかし、こちらも水行20日と同様に倭国側からの情報だったのではいかと今では考えています。

つまり、水行20日という伝聞情報の距離を測るに、里行程を書いた郡から女王国までの距離を倭人は「水行10日陸行1月」といっている(から水行20日の距離を計り知れる)、ということです。

これとは別に「郡から女王国に至るまで12000余里」は里程なので、中国側の資料である可能性が高いです。たしか魏略にも同様の文があったはず。

そして周辺情報である以下の文

>女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里

この、女王國から東に1000余里にある国と、その南方にある4000余里離れた侏儒國は、渡来系の里程を分かっていた国の人からの伝聞情報なのかもしれません。

2007年7月18日水曜日

比定地まとめ

すこし分かりづらいかと思い、比定地をまとめてみました。
A~D國は行程沿いの”~國2”と書いていた国のことです。

末盧國       唐津市、松浦川流域
伊都國       前原市あたり
奴國        福岡平野、那の川流域
不彌國       宇美町、須恵町あたりか?

A國(末盧國2) 末盧國
B國(伊都國2) 小城市または多久市あたり
C國(奴國2)   佐賀市あたり
D國(不彌國2) 吉野ヶ里

投馬國       琉球(沖縄)

邪馬壹國     筑紫平野、筑後川流域

2007年7月12日木曜日

蛇足

記されている邪馬台国までの行程をたどると
水行10000余里、陸行700余里(不彌國2~邪馬壹國の距離は0里として)
なのがわかります。

これは

>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
>自郡至女王國萬二千餘里

という記述と少しずれています

水行10000余里、陸行700余里
水行10日、陸行1月

水行は1日=1000里、これは1日で進むことができる距離を1000里とし、その距離を出したとも取れます。
問題は陸行です。700里を1月=29日というのはかかりすぎです。
別の記述から1日に進める距離はやく33里~50里、つまり100里を2~3日で進む程度であるとわかっています。
なので700里は多くても21日程度の距離です。

いったんこちらは置いておいて

水行10000余里、陸行700余里
12000余里

をみると1300里程足りないことがわかります。

萬二千餘里のでどころは、はっきりしません。陳寿が算出したとも、別の資料に依ったとも言われています。

わたしはこの2つのずれは、梯儁のルートと張政のルートの違いなのではないかと考えています。梯儁も福岡平野から久留米を抜けて筑紫平野の邪馬台国へ至っていた可能性もあります。それが12000余里もしくは水行10日陸行1月といった記述の元になっているのかもしれません。
しかし実際の所はよくわかりません。

また私は、梯儁の報告書とか張政の報告書とかと、見てきたような記述をしていることろもありますが、どちらにどのような記述があったのかなど私に知る由もありません。
ですから私が梯儁の報告書に~などと書いたものも本当は張政の報告書によるものだったのかもしれません。

ただ重要なのは、このような2つのルートの記述を同じルートの記述であると陳寿が勘違いしてしまったことです。

いえ、もしかしたら陳寿は勘違いしていたわけではないかもしれません。陳寿は別のものであることが解っていたのかもしれません。しかし正確に不確かなものを書くより、より解りやすく纏めた記述を陳寿が求めた結果なのかもしれません。今となっては知るすべのない話です。

陳寿とちがい、あまり纏まっていませんが、この辺りで一旦筆を置こうと思います。
ありがとうございました。

’07/07/07
杉森 良博

邪馬壹國2

不彌國2こと吉野ヶ里の南、筑後川の流れる筑紫平野、こここそが70000余戸の大国、邪馬台国です。

たどり着けば、すごく真っ当な比定地であることがわかります。
当時は福岡平野より筑紫平野のほうが人口が多かったことが知られています。これは福岡平野の奴國20000余戸より筑紫平野の邪馬壹國70000余戸のほうが多いことと一致します。
また絹の記述が当時九州にしかこれが存在しなかったことと一致します。
記述されている植物が、関西のそれではなく九州のものと考えられることとも一致します。
郡から女王國まで120000余里という記述も、九州内に邪馬台国があることを示しています。

そして今回、なぜ末盧國から水行ではなく陸行になるのか。小国の伊都國が大権力の国とされているのはなぜか。奴國から南東に邪馬壹國に行かずに、なぜ小国の不彌國によったのか。というところが納得できるかたちで解消したのではないでしょうか。

そして今まで、方位が90度間違えているとか、45度ずれているとか、距離が間違えているとか、いろいろ言われてきましたが、まったく間違えていないと解釈してごく自然に筑紫平野=邪馬台国にたどり着けることが解ったのではないでしょうか。

私は陳寿が、そして倭国の報告書を記述した人が、非常に誠実にかつ正しい記述を後世に残していたのだと確信しています。
福岡平野の奴國やその近隣の国の記述。邪馬台国までの行程。そのどれもが、現在知られている当時の状況と矛盾することなく三国志に記されています。
そしてこの三国志を記した陳寿がいかに誠実であったか、本当に頭の下がる思いです。

一方それを、勝手に間違えているなどと主張してきた日本人は、いまだに背伸びをしている猿なのではないか、という気がして悲しくなります。

次は、もしかしたら蛇足

投馬國2

別に2にする必要はないのですが、便箋的に投馬國2とします。
投馬國の記述は以下の文のみです。

>南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至る投馬國、水行20日。官は彌彌、副は彌彌那利。5万余戸。

これを正しく読むには次に続く文が必要なのです。
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

例の“水行10日陸行1月”です。

それはさておき、まず投馬國とは何かのか、というと「南に20日行ったところにある1つの国」です。
“20日”ということから、これは魏の使いが行ったのではなく伝聞情報であることが解ります。
どこから南へ20日なのかはよくわかりません、不彌國2なのか邪馬台国なのか奴國2なのか、はっきりしません。
わかるのは邪馬台国連合の人が、南に20日のところの国もわが国の一部だ、と言っていたことです。

おそらく邪馬台国連合の人は、自国が魏に朝貢しているように、南に20日のところの国が自国に朝貢しているのだ、と主張したのでしょう。
このあまりにも背伸びしすぎた主張は聞き入れなかったのでしょうが、それでもこの国を邪馬台国連合の1つと思わせてしまったようです。

陳寿は迷います。起点のはっきりしない南に20日というところの国、しかしながら官名などはわかっている国をどうすべきなのかと。
そして邪馬壹國の1つ前にこの国の記述を入れてしまったのです。

誠実な陳寿にとって、水行二十日は不確かな情報です。だからこれを補うのが件の水行十日陸行一月なのです。
つまり投馬國を除いて、郡から邪馬台国までが水行10日陸行1月であり、これから投馬國までの水行20日を推定できるのではないでしょうか?という陳寿の記述なのです。

投馬國とは邪馬台国連合と交流のあった国、私は琉球(沖縄)が投馬國だと考えています。

琉球は当時すでに中華帝国に知られている存在でした。
しかし琉球語は唯一日本語と関連を持つ言語であり、中華帝国より日本(倭国)との関係がより親密だったことが伺えます。
ゆえに当時の倭国にその存在の記述があることはそれほど不自然なこととは思いません。
またより南方の国の情報(裸国黒歯国)は、この投馬國(琉球)からの伝聞情報だったのではないかとも私は考えています。
これで水行20日の投馬國と、水行10日陸行1月という記述がなぜ記されているのか、という2つの謎が一気にとけました。

次は邪馬壹國♪

# 50000余戸は琉球にとっては多すぎる人口なのだが、伝聞情報として割り引くべきか? 現在沖縄人口は150万人、江戸末期には15万人程度。1戸8人で40万になる、1戸3人か、戸と人の間違いとも取れる。そもそも伝聞情報としての不確かさや、倭人がわざと大きくいっている可能性も否定できないか。

不彌國2

奴國2から東へ100里、不彌國2です。
邪馬壹國の北にあり1000戸余りの、とるにたらない小国。よらずに直接、邪馬壹國にいけば良いような、この蛇足的な国がわざわざ記されているのは何故でしょう?
答えは1つ、軍事的に重要な国だったから、です。

張政が奴國2に着いたときどのような状況だったのかはわかりません。
奴國2から邪馬壹國に直接いかず一度不彌國2に行ったのは、不彌國2が軍事的に重要だった為だけなのか、不彌國2が邪馬壹國に近い為なのか、邪馬壹國はすでに相手国に侵略されていた為なのか、わかりません。
わかることは次の1文です。

>卑彌呼以死

卑彌呼はすでに死んでいたのです。

それはともかく、不彌國2とはどこなのでしょう。
小国でありながら軍事拠点となりえる国、そう私はこの不彌國2こそ吉野ヶ里だと思っています。

つぎは謎の投馬國2です。

奴國2

伊都國2から南東に100里、奴國2に到ります。
丁度現在の佐賀市あたりでしょう。福岡平原の奴國に負けず劣らずの大国です。

ここでちょっと重要なのが末盧國~伊都國2の500里と伊都國2~奴國2の100里の、1里の違いです。

末盧國~伊都國2の500里は

>草木茂盛行不見前人
草木盛んに茂り前の人が見えず

なのです、しかも山越えです。
伊都國2~奴國2の100里は往来しやすい道であったと考えられます、しかも平地です。
里という単位は、絶対的な距離ではなく時間的な距離をあらわす単位系です。○○里で、あとどれくらいの時間歩けば着くかが分かるような単位なのです。つまり歩きづらいところの100里は短く、歩きやすい100里は長い距離になるのです。

その為、末盧國~伊都國2の500里と伊都國2~奴國2の100里を比べたても、絶対的距離が5倍ということではないことに注意してください。

次は不彌國2です。

伊都國2

ここでいう伊都國2とは、梯儁(ていしゅん)の報告書にあっただろう伊都國、今の前原市(まえはるし)辺りに比定される伊都國とは別の、張政の報告書に書かれていたであろう、末盧國から南東500里で到る国のことです。

末盧國から松浦川沿いを南東に上っていき多久市そして小城市に到る道です。
現在の唐津街道の片端に位置する伊都國2は、おそらく関所的な役割も担っていたのでしょう。
このことは、陳寿に伊都國=倭奴國と勘違いさせるに十分なことでした。
関所として荷の検閲などをすることが、“常にが駐る所”や“一大率がいる国”といった勘違いをもたらしたのです。
これが以前に伊都國のところで書いた、勘違いをしたもう1つの理由です。

実際に迎賓館や一大率(こちらは背伸びかもしれませんが)は、福岡平野にある奴國にあったのでしょう。前原市の伊都國や関所の伊都國2ではなかったはずです。

つぎは奴國2です。

末盧國2

末盧國は日本本土の上陸地点です。実はここに、多くの人を悩ませる謎があります。

末盧國以降の行程は陸行になるのですが、末盧國で船を降りる理由がはっきりしないのです。


出発地点の郡から朝鮮半島の海岸沿いを7000余里も船で移動しています。

末盧國以降の1000里に満たない距離を、船を使わず陸行するというのは、次に訪れる国が海岸沿いであるのなら考えにくい行動です。

一部の人は、それは倭国が中華帝国の庇護の下にはいったことを民衆に知らしめるためにわざわざ陸をあるいた、と主張しています。しかし次の(非常に重要な)一文がそれを否定します。

>草木茂盛行不見前人

草木盛んに茂り前の人が見えず


前の人が見えない様なのに、人々に知らしめる為もないのです。

人々に知らしめる為なら、国から国へ船ですばやく移動し、長くあるいは多くの人に知らしめるべきなのです。


何故わざわざ陸行したのか?

ここから導き出される結論は、次の国は海岸沿いの国ではなく内陸の国である、ということです。


私が末盧國を、今の松浦川流域、唐津市に比定したのは、このような理由です。

つまり唐津市から、松浦川に沿って南東へ内陸方向に進んでいったのです。

そしてこの道は、今でも唐津街道という名で、唐津市(そしてその先の中華帝国)と佐賀市を結んでいる重要な道路でなのす。


張政は急いでいました。そのために邪馬台国へ最も近いルートを通ることになったのです。


次は伊都國2です。

陳寿の勘違い2

いま陳寿の目の前には2つの報告書がある。

1つは梯儁(ていしゅん)の報告書。倭国へ詔書と印綬をもち、中華帝国・魏と親しい国であることを倭の人々にアピールしたときの記録である。
末盧國から伊都國を通り奴國にとどまり、また隣の不彌國までも行ったようである。
各国の戸数や官の名、制度、特徴なども書いてある。
使いを受け入れる鴻臚館(こうろかん)や一大率などの役職ことも書いてある。
また倭国の風俗・習慣や動植物や、周りの国々についての記述もある。

そしてもう1つの張政の報告書は、女王の要請で軍事的な進行をしたときのものである。
よって簡潔だが方位と距離がしっかりと書かれている。

そして陳寿は・・

次は末盧國2です。

邪馬壹國

>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

南にようやく邪馬壹國です。
しかしどこの南でしょう? 投馬國でしょうか? 不彌國でしょうか?
ここも距離は書かれていません、代わりに水行10日陸行1月です。

陳寿はどう考えていたのでしょう、混乱していたのでしょうか?
邪馬壹國ははるか彼方にある国なのでしょうか。

南いたる邪馬壹國、女王のいる都
(全行程)水行10日、陸行1月
とも読めます。これは後に書かれている一文

>自郡至女王國萬二千餘里
郡から女王国に至るまで12000余里

と合わせて考えると、全行程のことと捉えるのが妥当な気がします。
では「水行十日陸行一月」は蛇足だったのでしょうか。
そして投馬國は何だったのでしょう?

多くの謎を残し、邪馬壹國に至りました。
しかしここは何処でしょう?
福岡平野の南でしょうか?
南の海のなかの投馬國のさらに南の彼方でしょうか?
南ではなく東なのでしょうか?

何かがおかしいです。
陳寿はどのような解釈でこれらを書いたのでしょうか?
陳寿が間違えたのは距離でしょうか?方角でしょうか?あるいは両方でしょうか?

何かがおかしいです。
もう一度、日本上陸のところから考え直してみることにしましょう。

次はフィクションです。

投馬國

>南至投馬國水行二十日

いきなり水行です。しかも南に。距離はなし、代わりに20日。

奴國を福岡平野と比定しました、東に100里の不彌國も内陸です。

仮に不彌國が海岸つたいの国であったとしても、南は内陸です。

行く方向は南でも最初は北に或いは西か東に船出するのでしょうか。

しかも20日、20日あったらどこまで行けるのでしょう。

鹿児島でしょうか、九州を越えて海の中でしょうか。


多くの謎をかかえたまま、いよいよ次は終着点、邪馬壹國です。

不彌國

奴國を福岡平野に比定している人の間でさえ、不彌國の比定地は分かれます。

理由は、奴國から東に100里で不彌國、そしてそのすぐ南に邪馬台国、と考えているからです。

70000戸の大国である邪馬台国、その北に隣接する1000余戸の小国、不彌國。奴國から東に100里いくかわりに南東に100里いけば邪馬台国。

なぜ不彌國の記述があるのでしょうか?たまたま行ったから? 報告書に書いてあるから?不彌國がないがしろにされてきたのは、やはり陳寿の勘違いが原因です。

ですがここでは触れないでおきます。


ところで不彌國の比定地ですが、私は今の宇美町、須恵町あたりだっただろうと思います。が、この比定地はそれほど重要ではありません。


さて次は、いよいよ最大の謎、投馬國です。

奴國

20000余戸の大国。

北九州を統べる一大率がおり、使いが駐まる迎賓館である後の鴻臚館(こうろかん)があるところ。

那津、那の川流域、今の福岡平野に栄えたこの大国は邪馬台国連合のなかでもナンバー2の地位をもっていたことでしょう。

面白いのは、魏が帯方郡に置いた太守を、皇帝との間に入れて朝貢などのやりとりをしているのを、倭国も猿真似をして一大率なる役職をつくり同様に女王との間にいれてやりとりをしているところでしょう。

倭国が精一杯の背伸びをしているのが悲しくなるほどよくわかります。陳寿も苦笑していたかもしれません。

しかしそのようなことは1つも書かず、倭国にもそのようなシステムがあると、さらっと書いてるところが陳寿の誠実なところだと感じます。


つぎに不彌國です。

伊都國

比定地は前原市(まえはるし)あたり。
当時は海進が進んで(頭痛が痛いみたいな表現ですねw)今の糸島半島は半島ではなく島だったのは興味深いです。前原市あたりが糸島の対岸の海に面した場所であり、当時の遺跡などからも、伊都國がここと比定して間違えないでしょう。

伊都國は1000戸程度の小国(次の奴國が30000戸、邪馬台国70000戸と比べて)にも関わらず、王がいることや郡の使いが常に駐る所であること、一大率という北部の国を治めるような人がいる国、とされています。

しかしこれはどう考えても不自然です。ようやく勘違いその1が出てきました。
これは金印で有名な倭奴國を、陳寿が伊都國と同じ国であろうしたのが原因でしょう。
倭奴國の名は、現存する資料では後に書かれた後漢書にでてきますが、陳寿も同様の資料を持ち、国名などを知っていたと考えられます。
邪馬台国の200年も前の建武中元二年(57年)に、金印をさずかった倭奴國です、陳寿はこれを無視することができません。
そのため新しく手に入った報告書の中に、昔から知られていた倭奴國を探す必要がありました。
それが伊都國です。
王がいる、とわざわざ書いたのは、この昔金印を授かった王がいた国が伊都國である、と陳寿はいっているのでしょう。
使いが駐る所や一大率も伊都國ではないでしょう、上にも書きましたが伊都國は1000戸程度の小国です。
むしろ次の奴國こそ、使いが駐る所、一大率のいる所にふさわしい国なのです。

そしてもう1つ伊都國をそのような重要な国と勘違いした理由があったと私は考えています。それはもう少し後に書かせてもらいます。

では次に奴国です。

末盧國

末盧國は壱岐から一番ちかい東松浦半島でしょう。

次の伊都國の東南500里を考慮して呼子としている人も多くみられますが、私は松浦川流域の唐津市あたりだっただろうと考えています。

末盧國比定の理由はここではまだ詳細に書きません、すみませんがもう少しまってください。


次に伊都國です。


行程

三国志に書かれている行程がどのようなものなのかを見ていきましょう。
できれば、どのような行程になるのかイメージしてみてください。
特に日本上陸後は方向と距離が書かれていますから、そう難しくはないと思います。

0、出発点「郡」は今の韓国ソールあたり

1、郡から海岸づたいに南→東と7000余里で、狗邪韓國

2、海にでて1000余里で、對馬國

3、南に海を渡って1000余里で、一大國

(この次から日本上陸)

4、海を渡って1000余里で、末盧國

5、東南に陸行500里で、伊都國

6、東南に100里で、奴國

7、東に100里で、不彌國

8、南に水行20日で、投馬國

9、南に、水行10日陸行1月で(?)、邪馬壹國(南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月)


どうでしょう、邪馬台国までの道のりはイメージできましたか?
さて、簡単に3までの比定をしていきましょう。
1の狗邪韓國は朝鮮半島の南端です。
2の對馬國は対馬。
3の一大國は壱岐。
ここまでは間違いないでしょう。


次からいよいよ日本上陸です。

陳寿の勘違い

三国志は陳寿(ちんじゅ,233~297)が記したものですが、倭国に陳寿が直接きてその紀行文を書いたわけではありません。

倭国に2度送られた魏の使い、梯儁(ていしゅん)と張政の報告書、および漢書や魏略などといった歴史書、またはそれらの資料を元に書いています。

これらを纏めて1つの文章にしたわけで、当然そこには陳寿がどういう解釈でその文章を書いていったのか、というところが問題になります。

過去多くの読み方がされてきましたが、それらは陳寿がどういう解釈をしたのかという部分を考慮せずに、書かれた文章が正しいとか間違えているとか言われてきました。

しかし、そもそも陳寿の解釈が間違えている可能性が多いにありえます。

いわばこの陳寿の勘違いに振り回されてきたのです。

まずは記述されている行程を見てみましょう。

序文

邪馬台国が書かれていることで有名な魏志倭人伝は、いままで多くの人がさまざまな解釈をしてきています。

しかしそれらのどれも私を納得させるには不十分でした。

あるものは距離が間違えている、あるものは方位が間違えている、あるいは両方間違えているなどなど、果たして一体どうなっているのやら困惑せざるをえません。

そこで私も自ら原書を読み、何がどう書いてあるのか、どう解釈すべきなのかを考え、一応の答えが出たのでそれをここに記そうと思います。

まだまだ細部を検証すべきところもあるでしょうし、私の思い込みで書いてある部分もあります。

しかし同様の説はまだ見たことがなく、公表するに十分な価値があろうと思っています。


「結論ありき」ではありませんが、邪馬台国比定地は筑紫平野、筑後川流域です。


2007年7月7日杉森 良博