先日のアイデアの練り直し。
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量子力学により、真空は何も無い空間ではなく、仮想粒子が対生成や対消滅を起こしている状態であることが分かってきた。これにより、真空中を走る光もその影響を受けると考えることが出来る。
光の真空中の速度 c
光の論理上の速度を c0
とし
光の真空屈折率 nc
というものを想定すると
c0 = c × nc
なる関係が成り立っていると考えることが出来る。
これはニュートリノについても同様と考えられ、
ニュートリノの真空中の速度 vν
ニュートリノの論理上の速度を vν0
ニュートリノの真空屈折率 nν
とし、
情報等の伝達速度の上限 ヨ
とすると
ヨ = c0 = c × nc
ヨ > vν0 = vν × nν
とう関係が成り立っていることになる。
ここで、光が真空から受ける相互作用のほうが、ニュートリノが受けるそれより大きいと考えられるので、真空屈折率は光のほうがニュートリノより大きい。つまり
nc > nν > 1
ニュートリノの速度が十分に速い場合は
ヨ = c0 = c × nc > vν0 = vν × nν > vν > c
と成りえることがある。
荷電粒子が媒体中の光より速い場合はチェレンコフ放射が起こるが、これと同様の現象がニュートリノが重力より速い場合も起こるのではないだろうか。ニュートリノが真空中の重力波より速い場合、重力波のチェレンコフ放射が起こり、これによりニュートリノの速度が真空中の重力波と同速度まで減速されると考えられるであろう。光の論理上の速度と重力波の理論上の速度は共に情報等の伝達速度の上限"ヨ"に等しいが、何らかの機構で真空中の光の速度と真空中の重力波の速度が等しくなるならば、長距離を走るニュートリノは真空中の光速度と等しくなると考えられる。
2011年11月18日金曜日
光とニュートリノの真空中の速度について
量子力学により、真空は何も無い空間ではなく、仮想粒子が対生成や対消滅を起こしている状態であることが分かってきた。これにより、真空中を走る光もその影響を受けると考えることが出来る。
光の真空中の速度 c
光の論理上の速度を c0
とし
光の真空屈折率 nν
というものを想定すると
c0 = c × nc
なる関係が成り立っていると考えることが出来る。
これはニュートリノについても同様と考えられ、
ニュートリノの真空中の速度 vν
ニュートリノの論理上の速度を vν0
ニュートリノの真空屈折率 nν
とし、
情報等の伝達速度の上限 ヨ
とすると
ヨ = c0 = c × nc
= vν0 = vν × nν
とう関係が成り立っていることになる。
ここで、光が真空から受ける相互作用のほうが、ニュートリノが受けるそれより大きいと考えられるので、真空屈折率は光のほうがニュートリノより大きい。つまり
nc > nν >= 1
これらより
c = vν × ( nν / nc )
c < vν
が示される。
2011/11/18 杉森
光の真空中の速度 c
光の論理上の速度を c0
とし
光の真空屈折率 nν
というものを想定すると
c0 = c × nc
なる関係が成り立っていると考えることが出来る。
これはニュートリノについても同様と考えられ、
ニュートリノの真空中の速度 vν
ニュートリノの論理上の速度を vν0
ニュートリノの真空屈折率 nν
とし、
情報等の伝達速度の上限 ヨ
とすると
ヨ = c0 = c × nc
= vν0 = vν × nν
とう関係が成り立っていることになる。
ここで、光が真空から受ける相互作用のほうが、ニュートリノが受けるそれより大きいと考えられるので、真空屈折率は光のほうがニュートリノより大きい。つまり
nc > nν >= 1
これらより
c = vν × ( nν / nc )
c < vν
が示される。
2011/11/18 杉森
2010年9月20日月曜日
2010年6月14日月曜日
大倭と一大率
大倭は大率の写し間違いではないか、という考察です。
大倭の書かれている文章は以下の通り。
A:收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。
B:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
C:於國中有如刺史。
D:王遣使詣京都・帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書・賜遣之物詣女王、不得差錯。
Aで大倭が國々に居る事が書かれている。
Bで(唐突に)一大率のことが書かれていて、伊都國に居る。
Cで刺史の如くと書かれているが、於國中から伊都國にしかいない一大率のことではないとされている。
Dの文は皆臨津など伊都國のことと考えられている。
このように短い1連の文のなかに、大倭と一大率と如刺史な者という3つの異なる役職などのことが書かれていることと、
伊都國について書かれているのか倭の國々についてなのか混乱しているように読めるところがある。
大倭を大率の間違いとすると、これらの文が全て大率についての文章であると読め、
伊都國に大率のトップを特置一大率していて、如刺史は國々の市を監する大率のこと、
一大率の元、伊都國で皆臨津~している、と一連の流れとして読むことができる。
大倭の書かれている文章は以下の通り。
A:收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。
B:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
C:於國中有如刺史。
D:王遣使詣京都・帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書・賜遣之物詣女王、不得差錯。
Aで大倭が國々に居る事が書かれている。
Bで(唐突に)一大率のことが書かれていて、伊都國に居る。
Cで刺史の如くと書かれているが、於國中から伊都國にしかいない一大率のことではないとされている。
Dの文は皆臨津など伊都國のことと考えられている。
このように短い1連の文のなかに、大倭と一大率と如刺史な者という3つの異なる役職などのことが書かれていることと、
伊都國について書かれているのか倭の國々についてなのか混乱しているように読めるところがある。
大倭を大率の間違いとすると、これらの文が全て大率についての文章であると読め、
伊都國に大率のトップを特置一大率していて、如刺史は國々の市を監する大率のこと、
一大率の元、伊都國で皆臨津~している、と一連の流れとして読むことができる。
2009年11月24日火曜日
少し違った2つのルート説のまとめ
とある掲示板に書き込んだ内容ですが、上手く書けたように思いますので転記しておきます。
まずはじめに、現状の認識をもう一度確認しておきましょう。
末盧国を唐津市、伊都国を前原市、奴国を福岡平野、不彌国を宇美町に比定する考えは、
遺跡などの考古学的な裏付けもあり、金印や地名川名といった名残も見られるため、
これらを間違いと考えるのは非常に困難なことになります。
ところが倭人伝の記述からは、末盧国から南東に佐賀平野へ抜けるように書かれています。
この方位・里数は、伊都国を前原市、奴国を福岡平野と比定するものには全く合いません。
そして倭人伝には、”2度”の魏の使いがあったことが書かれています。
この魏の使いが2度あったことは、いままで非常に蔑ろにされていた事実です。
これらをまとめると、以下のようなことが言えます。
・倭人伝には末盧国から福岡平野へ抜けるルートが書かれている
・倭人伝には末盧国から佐賀平野へ抜けるルートが書かれている
・倭人伝には2度の使いがあったことが書かれている
ここから導き出される結論としては、
1)魏の2度の使いは、共に福岡平野へ抜けるルートを通った
2)魏の2度の使いは、共に佐賀平野へ抜けるルートを通った
3)魏の2度の使いは、福岡平野へと佐賀平野へのそれぞれ別のルートを通った
の3つのうち、最後の3)になるでしょう。
他の2つの候補は、考えにくいものであることが良くわかるのではないかと思います。
この2つのルートをそれぞれ福岡平野ルート、佐賀平野ルートと呼ぶことにしますと、倭人伝の記述は、
福岡平野ルート:末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・邪馬台国
佐賀平野ルート:南東500里・南東100里・東100里
ということです。
佐賀平野ルートは分かりやすいですね、末盧国から南東500里・南東100里・東100里で邪馬台国です。
福岡平野ルートを考えると、方位・距離は不彌国までは佐賀平野ルートのものが書かれているのですが、
その後の不彌国→投馬国と投馬国→邪馬台国の方位は、佐賀平野ルートのものではないので、
ここの2度の南という方位は、おそらく福岡平野ルートのものが書かれているのではないかと考えられます。
また少し恣意的な感じがするかもしれませんが、福岡平野ルートと佐賀平野ルートが共に同じ邪馬台国にたどり着くのですから、
福岡平野ルートは不彌国より後は南に行くことになるわけですが、これは正に倭人伝の記述どおりだといえます。
福岡平野ルートも国名以外にも方位も書かれていたようだと分かったところで、では距離(里程)はどうかと考えてみると、
郡から邪馬台国まで12000里という記述がありますので、これが正に福岡平野ルートのものではないかと思えます。
国名以外にも方位も書いてあるなら里程も書いてあっておかしくない訳ですが、倭人伝にはちゃんと書かれていたということですね。
佐賀平野ルートの里程の合計が郡から10700里というのは、2つのルートの距離の差として妥当なものでしょう。
福岡平野ルートからみれば、国名も方位も里程も書いてあったものに、勝手に他の情報(佐賀平野ルートの方向と里程)を紛れ込まされた、といった感じでしょうか。
同様の考えで、2つの日程の水行20日と水行10日陸行1月も、何か別の情報が紛れ込んだものといえます。
この水行20日と水行10日陸行1月についてもう少し考えてみましょう。
邪馬台国が水行20日(おそらく南)の国と、交易など何らかの関係があったことの記録でしょう。
佐賀平野ルートにおいて、邪馬台国は末盧国から3つ目の国ですから、
「末盧国から3つ目の国から水行20日」という行程情報になります。
ところで福岡平野ルートでは末盧国から3つ目の国というのは不彌国です。
ここで「不彌国から南に水行20日」という情報に化けて行程に入り込んだとも考えられます。
また水行10日陸行1月は、郡から邪馬台国までの倭人情報の日数と考えると、
”郡から”が抜けて(あるいは恣意的に無視して)「邪馬台国まで水行10日陸行1月」という情報に化けて入り込んだものとも考えられます。
もっとも「水行20日」も使い切ってしまい、他に距離の情報がなかったと考えるべきかもしれませんが、
この考えが正しければ、水行20日も水行10日陸行1月も、出発点か終着点のどちらかは間違っていない情報だったと言えます。
まずはじめに、現状の認識をもう一度確認しておきましょう。
末盧国を唐津市、伊都国を前原市、奴国を福岡平野、不彌国を宇美町に比定する考えは、
遺跡などの考古学的な裏付けもあり、金印や地名川名といった名残も見られるため、
これらを間違いと考えるのは非常に困難なことになります。
ところが倭人伝の記述からは、末盧国から南東に佐賀平野へ抜けるように書かれています。
この方位・里数は、伊都国を前原市、奴国を福岡平野と比定するものには全く合いません。
そして倭人伝には、”2度”の魏の使いがあったことが書かれています。
この魏の使いが2度あったことは、いままで非常に蔑ろにされていた事実です。
これらをまとめると、以下のようなことが言えます。
・倭人伝には末盧国から福岡平野へ抜けるルートが書かれている
・倭人伝には末盧国から佐賀平野へ抜けるルートが書かれている
・倭人伝には2度の使いがあったことが書かれている
ここから導き出される結論としては、
1)魏の2度の使いは、共に福岡平野へ抜けるルートを通った
2)魏の2度の使いは、共に佐賀平野へ抜けるルートを通った
3)魏の2度の使いは、福岡平野へと佐賀平野へのそれぞれ別のルートを通った
の3つのうち、最後の3)になるでしょう。
他の2つの候補は、考えにくいものであることが良くわかるのではないかと思います。
この2つのルートをそれぞれ福岡平野ルート、佐賀平野ルートと呼ぶことにしますと、倭人伝の記述は、
福岡平野ルート:末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・邪馬台国
佐賀平野ルート:南東500里・南東100里・東100里
ということです。
佐賀平野ルートは分かりやすいですね、末盧国から南東500里・南東100里・東100里で邪馬台国です。
福岡平野ルートを考えると、方位・距離は不彌国までは佐賀平野ルートのものが書かれているのですが、
その後の不彌国→投馬国と投馬国→邪馬台国の方位は、佐賀平野ルートのものではないので、
ここの2度の南という方位は、おそらく福岡平野ルートのものが書かれているのではないかと考えられます。
また少し恣意的な感じがするかもしれませんが、福岡平野ルートと佐賀平野ルートが共に同じ邪馬台国にたどり着くのですから、
福岡平野ルートは不彌国より後は南に行くことになるわけですが、これは正に倭人伝の記述どおりだといえます。
福岡平野ルートも国名以外にも方位も書かれていたようだと分かったところで、では距離(里程)はどうかと考えてみると、
郡から邪馬台国まで12000里という記述がありますので、これが正に福岡平野ルートのものではないかと思えます。
国名以外にも方位も書いてあるなら里程も書いてあっておかしくない訳ですが、倭人伝にはちゃんと書かれていたということですね。
佐賀平野ルートの里程の合計が郡から10700里というのは、2つのルートの距離の差として妥当なものでしょう。
福岡平野ルートからみれば、国名も方位も里程も書いてあったものに、勝手に他の情報(佐賀平野ルートの方向と里程)を紛れ込まされた、といった感じでしょうか。
同様の考えで、2つの日程の水行20日と水行10日陸行1月も、何か別の情報が紛れ込んだものといえます。
この水行20日と水行10日陸行1月についてもう少し考えてみましょう。
邪馬台国が水行20日(おそらく南)の国と、交易など何らかの関係があったことの記録でしょう。
佐賀平野ルートにおいて、邪馬台国は末盧国から3つ目の国ですから、
「末盧国から3つ目の国から水行20日」という行程情報になります。
ところで福岡平野ルートでは末盧国から3つ目の国というのは不彌国です。
ここで「不彌国から南に水行20日」という情報に化けて行程に入り込んだとも考えられます。
また水行10日陸行1月は、郡から邪馬台国までの倭人情報の日数と考えると、
”郡から”が抜けて(あるいは恣意的に無視して)「邪馬台国まで水行10日陸行1月」という情報に化けて入り込んだものとも考えられます。
もっとも「水行20日」も使い切ってしまい、他に距離の情報がなかったと考えるべきかもしれませんが、
この考えが正しければ、水行20日も水行10日陸行1月も、出発点か終着点のどちらかは間違っていない情報だったと言えます。
大和と畿内ヤマトと邪馬台国
畿内ヤマトは邪馬台国とは別の国
これが私の結論ですが、この邪馬台とヤマトの音がよく似ていることは、畿内ヤマト説の根拠の1つになっていたりしますが、これに付いて私の見解を書いておきます。
まず知らない人に、大和から説明しておきますと、これは元々中華人が日本のことを倭と呼んだことに由来します。
漢の時代に100余国に分かれていたのが後に1つの国とまとまったため、これを大倭と書くようになりました。
この大倭の倭の文字を、日本人が自分達の好きな和の文字に変えて大和と書くようになったものです。
この大和の読み「やまと」の由来ですが、私は次のように考えています。
畿内ヤマト王権は国産みからずっと自分達が日本を支配してきたことにしたかったのは、日本書紀をみればあきらかなのですが、このことに都合の悪いのが三国志に書かれた邪馬台国なわけです。
中国の書籍に書かれたことを間違いだとは言えませんから、当時日本を支配していた邪馬台国とは自分達の国のことだ、とすることにしたのです。
そうしなければ、邪馬台国という別の国が日本を治めてきたことになりますからね。
そこで三国志に書かれた邪馬台国の音つまり「やまと」をとって自分達の国の名前としたのです。
こうして、三国志に書かれた邪馬台国は日本書紀に書いた畿内ヤマトと同じ国で、ずっと日本を支配してきました、というシナリオを作り上げたのです。
それではじめて、自分達の国を大和と書き「やまと」と読むようになったのです。
ですから、それ以前に自分達の国を「やまと」と読んでいた跡は、私の知る限りありません。
畿内に大和と書く以外の「やまと」とよぶ地名がないのは、もともと「やまと」とよんでいた地名が無かったからだと考えています。
よく畿内説の人が、畿内ヤマトと読みが良く似てるのは畿内に邪馬台国があった証拠だ等と言うことがありますが、これは因果がまったく逆なのです。
これが私の結論ですが、この邪馬台とヤマトの音がよく似ていることは、畿内ヤマト説の根拠の1つになっていたりしますが、これに付いて私の見解を書いておきます。
まず知らない人に、大和から説明しておきますと、これは元々中華人が日本のことを倭と呼んだことに由来します。
漢の時代に100余国に分かれていたのが後に1つの国とまとまったため、これを大倭と書くようになりました。
この大倭の倭の文字を、日本人が自分達の好きな和の文字に変えて大和と書くようになったものです。
この大和の読み「やまと」の由来ですが、私は次のように考えています。
畿内ヤマト王権は国産みからずっと自分達が日本を支配してきたことにしたかったのは、日本書紀をみればあきらかなのですが、このことに都合の悪いのが三国志に書かれた邪馬台国なわけです。
中国の書籍に書かれたことを間違いだとは言えませんから、当時日本を支配していた邪馬台国とは自分達の国のことだ、とすることにしたのです。
そうしなければ、邪馬台国という別の国が日本を治めてきたことになりますからね。
そこで三国志に書かれた邪馬台国の音つまり「やまと」をとって自分達の国の名前としたのです。
こうして、三国志に書かれた邪馬台国は日本書紀に書いた畿内ヤマトと同じ国で、ずっと日本を支配してきました、というシナリオを作り上げたのです。
それではじめて、自分達の国を大和と書き「やまと」と読むようになったのです。
ですから、それ以前に自分達の国を「やまと」と読んでいた跡は、私の知る限りありません。
畿内に大和と書く以外の「やまと」とよぶ地名がないのは、もともと「やまと」とよんでいた地名が無かったからだと考えています。
よく畿内説の人が、畿内ヤマトと読みが良く似てるのは畿内に邪馬台国があった証拠だ等と言うことがありますが、これは因果がまったく逆なのです。
2009年11月2日月曜日
卑弥呼の没年 244年死亡説 その2
「正始元年にも倭王の文字が見えるが、これも男王のことなのか?」という突っ込みがありました。
確かに正始元年の記事にも倭王の文字がありますね。この正始元年の倭王は、梯儁が会った卑弥呼に間違いはないので、正始元年の倭王は卑弥呼のことです。
そしてこの文を受けて「其四年倭王復遣使~」なので、4年の倭王も卑弥呼のことと見るのが妥当であるといえます。
もし倭王が卑弥呼から誰かに替わっているのならば、そのことに触れられていないことに疑問が付きます。
しかしながら、この年次別の記事には欠陥と言える程の抜けが目立つのです。
8年の冒頭に新しい太守が来たことが書かれていますが、この唐突な話は6年に馬韓の反乱が起きて、これによって7年に太守の弓遵が戦死していることに依ります。そして太守の話自体が書かれているのは、6年にその太守を通して黄幢を授けさせる(黄幢付郡假授)ということがあり、その黄幢が8年の新太守の到官により張政によって届けられるという流れの話なのです。
しかし、それらの話がばっさり削られているために、ここの文だけではなんの為の文なのか分からなくなってしまっているのです。
さらに8年に「卑彌呼以死」が書かれ、あたかも卑弥呼が正始8年に死亡したかの様な記事として書かれているわけですが、ここは前回説明したように、正始元年に梯儁が帰ってから以降の倭国の経緯を書いているので、これらが8年にあったという事ではないのですが、このことも非常に分かりづらい文章となっています。
よく正始8年(248年)に倭に来た張政が、その後数年から十数年に倭に居たのではないかという説を見かけますが、これらもこの正始元年から正始8年に倭国で起こったことを8年の記事に書いているという分かりづらさから来た誤解といえます。
8年の記事にはもう1つ、再び倭の遣いが来て狗奴國との抗争について説明したこと(これによって張政が倭に派遣されることとなったこと)が書かれていますが、この8年の倭の遣いには倭王の文字はなく、誰が送ってきたのかぼかされたような書き方になっているのは、律儀な感じがして少し面白いところですね。
以上見てきたように、正始4年(244年)の倭王を卑弥呼と見るなら、卑弥呼の死は245年(244年の秋)から247年までの期間と言えます。
しかし、この年次別の文章の精度から、4年の倭王を卑弥呼の次の男王と見て、正始元年以降の2回の倭の遣いを倭国王の交代と関連させて考える説も、決して可能性のないことではないと私は考えています。
確かに正始元年の記事にも倭王の文字がありますね。この正始元年の倭王は、梯儁が会った卑弥呼に間違いはないので、正始元年の倭王は卑弥呼のことです。
そしてこの文を受けて「其四年倭王復遣使~」なので、4年の倭王も卑弥呼のことと見るのが妥当であるといえます。
もし倭王が卑弥呼から誰かに替わっているのならば、そのことに触れられていないことに疑問が付きます。
しかしながら、この年次別の記事には欠陥と言える程の抜けが目立つのです。
8年の冒頭に新しい太守が来たことが書かれていますが、この唐突な話は6年に馬韓の反乱が起きて、これによって7年に太守の弓遵が戦死していることに依ります。そして太守の話自体が書かれているのは、6年にその太守を通して黄幢を授けさせる(黄幢付郡假授)ということがあり、その黄幢が8年の新太守の到官により張政によって届けられるという流れの話なのです。
しかし、それらの話がばっさり削られているために、ここの文だけではなんの為の文なのか分からなくなってしまっているのです。
さらに8年に「卑彌呼以死」が書かれ、あたかも卑弥呼が正始8年に死亡したかの様な記事として書かれているわけですが、ここは前回説明したように、正始元年に梯儁が帰ってから以降の倭国の経緯を書いているので、これらが8年にあったという事ではないのですが、このことも非常に分かりづらい文章となっています。
よく正始8年(248年)に倭に来た張政が、その後数年から十数年に倭に居たのではないかという説を見かけますが、これらもこの正始元年から正始8年に倭国で起こったことを8年の記事に書いているという分かりづらさから来た誤解といえます。
8年の記事にはもう1つ、再び倭の遣いが来て狗奴國との抗争について説明したこと(これによって張政が倭に派遣されることとなったこと)が書かれていますが、この8年の倭の遣いには倭王の文字はなく、誰が送ってきたのかぼかされたような書き方になっているのは、律儀な感じがして少し面白いところですね。
以上見てきたように、正始4年(244年)の倭王を卑弥呼と見るなら、卑弥呼の死は245年(244年の秋)から247年までの期間と言えます。
しかし、この年次別の文章の精度から、4年の倭王を卑弥呼の次の男王と見て、正始元年以降の2回の倭の遣いを倭国王の交代と関連させて考える説も、決して可能性のないことではないと私は考えています。
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