2008年10月9日木曜日

四方位か八方位か

前回は不彌國からの南接0里を再考し新たな見解を得たのですが、もう1つ、四方位か八方位かというところがあります。
倭人條では「東南」という方位があるため、無条件に八方位で書かれているものと思われてきました。
ところが三国志自体はほとんど四方位で書かれているようなのす。(伝聞情報ですみません)

以前から私は水行四方位、陸行八方位だったのではないかと漠然と考えてきたのですが、これも梯儁と張政の違いと捉えことができると気が付いたのです。
梯儁が四方位、張政が八方位で報告書を書いたとしたら、方位に関しては陳寿がどちらを採用したかということになります。

また急いでいた張政は、狗邪韓國に寄らずに巨済島から南東の方角に對馬國に渡ったのではないかとも考えられます。
このようなことを考えると末盧國までの行程記事もなかなか興味深くなってきます。
キーワードとしては「乍南乍東」「始度一海」「又南渡一海」あたりでしょうか、なんとなくばらばらのパッチワークのような印象を受けているところなどが、2つの別のものとするとすっきりする感じがします。
また3回の渡海で方位が1度しか出てこないのも、うまくぼかして記述しているのかと思えてきます。

もう1つ四方位と考えると私の説に都合のよい部分があります。それは不彌國以降の投馬國と邪馬壹國の位置です。
不彌國から南に大宰府あたりを抜けて投馬國、そして筑後川下流域の邪馬壹國は投馬國から見て八方位では南西の方向になりますが、四方位では南といって問題ない位置関係です。

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