2009年11月2日月曜日

卑弥呼の没年 244年死亡説 その2

「正始元年にも倭王の文字が見えるが、これも男王のことなのか?」という突っ込みがありました。
確かに正始元年の記事にも倭王の文字がありますね。この正始元年の倭王は、梯儁が会った卑弥呼に間違いはないので、正始元年の倭王は卑弥呼のことです。
そしてこの文を受けて「其四年倭王復遣使~」なので、4年の倭王も卑弥呼のことと見るのが妥当であるといえます。
もし倭王が卑弥呼から誰かに替わっているのならば、そのことに触れられていないことに疑問が付きます。

しかしながら、この年次別の記事には欠陥と言える程の抜けが目立つのです。
8年の冒頭に新しい太守が来たことが書かれていますが、この唐突な話は6年に馬韓の反乱が起きて、これによって7年に太守の弓遵が戦死していることに依ります。そして太守の話自体が書かれているのは、6年にその太守を通して黄幢を授けさせる(黄幢付郡假授)ということがあり、その黄幢が8年の新太守の到官により張政によって届けられるという流れの話なのです。
しかし、それらの話がばっさり削られているために、ここの文だけではなんの為の文なのか分からなくなってしまっているのです。
さらに8年に「卑彌呼以死」が書かれ、あたかも卑弥呼が正始8年に死亡したかの様な記事として書かれているわけですが、ここは前回説明したように、正始元年に梯儁が帰ってから以降の倭国の経緯を書いているので、これらが8年にあったという事ではないのですが、このことも非常に分かりづらい文章となっています。
よく正始8年(248年)に倭に来た張政が、その後数年から十数年に倭に居たのではないかという説を見かけますが、これらもこの正始元年から正始8年に倭国で起こったことを8年の記事に書いているという分かりづらさから来た誤解といえます。

8年の記事にはもう1つ、再び倭の遣いが来て狗奴國との抗争について説明したこと(これによって張政が倭に派遣されることとなったこと)が書かれていますが、この8年の倭の遣いには倭王の文字はなく、誰が送ってきたのかぼかされたような書き方になっているのは、律儀な感じがして少し面白いところですね。

以上見てきたように、正始4年(244年)の倭王を卑弥呼と見るなら、卑弥呼の死は245年(244年の秋)から247年までの期間と言えます。
しかし、この年次別の文章の精度から、4年の倭王を卑弥呼の次の男王と見て、正始元年以降の2回の倭の遣いを倭国王の交代と関連させて考える説も、決して可能性のないことではないと私は考えています。

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