2009年11月24日火曜日

少し違った2つのルート説のまとめ

とある掲示板に書き込んだ内容ですが、上手く書けたように思いますので転記しておきます。

まずはじめに、現状の認識をもう一度確認しておきましょう。
末盧国を唐津市、伊都国を前原市、奴国を福岡平野、不彌国を宇美町に比定する考えは、
遺跡などの考古学的な裏付けもあり、金印や地名川名といった名残も見られるため、
これらを間違いと考えるのは非常に困難なことになります。

ところが倭人伝の記述からは、末盧国から南東に佐賀平野へ抜けるように書かれています。
この方位・里数は、伊都国を前原市、奴国を福岡平野と比定するものには全く合いません。

そして倭人伝には、”2度”の魏の使いがあったことが書かれています。
この魏の使いが2度あったことは、いままで非常に蔑ろにされていた事実です。

これらをまとめると、以下のようなことが言えます。
・倭人伝には末盧国から福岡平野へ抜けるルートが書かれている
・倭人伝には末盧国から佐賀平野へ抜けるルートが書かれている
・倭人伝には2度の使いがあったことが書かれている

ここから導き出される結論としては、
1)魏の2度の使いは、共に福岡平野へ抜けるルートを通った
2)魏の2度の使いは、共に佐賀平野へ抜けるルートを通った
3)魏の2度の使いは、福岡平野へと佐賀平野へのそれぞれ別のルートを通った
の3つのうち、最後の3)になるでしょう。
他の2つの候補は、考えにくいものであることが良くわかるのではないかと思います。


この2つのルートをそれぞれ福岡平野ルート、佐賀平野ルートと呼ぶことにしますと、倭人伝の記述は、
福岡平野ルート:末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・邪馬台国
佐賀平野ルート:南東500里・南東100里・東100里
ということです。

佐賀平野ルートは分かりやすいですね、末盧国から南東500里・南東100里・東100里で邪馬台国です。

福岡平野ルートを考えると、方位・距離は不彌国までは佐賀平野ルートのものが書かれているのですが、
その後の不彌国→投馬国と投馬国→邪馬台国の方位は、佐賀平野ルートのものではないので、
ここの2度の南という方位は、おそらく福岡平野ルートのものが書かれているのではないかと考えられます。
また少し恣意的な感じがするかもしれませんが、福岡平野ルートと佐賀平野ルートが共に同じ邪馬台国にたどり着くのですから、
福岡平野ルートは不彌国より後は南に行くことになるわけですが、これは正に倭人伝の記述どおりだといえます。

福岡平野ルートも国名以外にも方位も書かれていたようだと分かったところで、では距離(里程)はどうかと考えてみると、
郡から邪馬台国まで12000里という記述がありますので、これが正に福岡平野ルートのものではないかと思えます。
国名以外にも方位も書いてあるなら里程も書いてあっておかしくない訳ですが、倭人伝にはちゃんと書かれていたということですね。
佐賀平野ルートの里程の合計が郡から10700里というのは、2つのルートの距離の差として妥当なものでしょう。

福岡平野ルートからみれば、国名も方位も里程も書いてあったものに、勝手に他の情報(佐賀平野ルートの方向と里程)を紛れ込まされた、といった感じでしょうか。
同様の考えで、2つの日程の水行20日と水行10日陸行1月も、何か別の情報が紛れ込んだものといえます。

この水行20日と水行10日陸行1月についてもう少し考えてみましょう。

邪馬台国が水行20日(おそらく南)の国と、交易など何らかの関係があったことの記録でしょう。
佐賀平野ルートにおいて、邪馬台国は末盧国から3つ目の国ですから、
「末盧国から3つ目の国から水行20日」という行程情報になります。
ところで福岡平野ルートでは末盧国から3つ目の国というのは不彌国です。
ここで「不彌国から南に水行20日」という情報に化けて行程に入り込んだとも考えられます。

また水行10日陸行1月は、郡から邪馬台国までの倭人情報の日数と考えると、
”郡から”が抜けて(あるいは恣意的に無視して)「邪馬台国まで水行10日陸行1月」という情報に化けて入り込んだものとも考えられます。
もっとも「水行20日」も使い切ってしまい、他に距離の情報がなかったと考えるべきかもしれませんが、
この考えが正しければ、水行20日も水行10日陸行1月も、出発点か終着点のどちらかは間違っていない情報だったと言えます。

大和と畿内ヤマトと邪馬台国

畿内ヤマトは邪馬台国とは別の国

これが私の結論ですが、この邪馬台とヤマトの音がよく似ていることは、畿内ヤマト説の根拠の1つになっていたりしますが、これに付いて私の見解を書いておきます。

まず知らない人に、大和から説明しておきますと、これは元々中華人が日本のことを倭と呼んだことに由来します。
漢の時代に100余国に分かれていたのが後に1つの国とまとまったため、これを大倭と書くようになりました。
この大倭の倭の文字を、日本人が自分達の好きな和の文字に変えて大和と書くようになったものです。


この大和の読み「やまと」の由来ですが、私は次のように考えています。

畿内ヤマト王権は国産みからずっと自分達が日本を支配してきたことにしたかったのは、日本書紀をみればあきらかなのですが、このことに都合の悪いのが三国志に書かれた邪馬台国なわけです。
中国の書籍に書かれたことを間違いだとは言えませんから、当時日本を支配していた邪馬台国とは自分達の国のことだ、とすることにしたのです。
そうしなければ、邪馬台国という別の国が日本を治めてきたことになりますからね。

そこで三国志に書かれた邪馬台国の音つまり「やまと」をとって自分達の国の名前としたのです。
こうして、三国志に書かれた邪馬台国は日本書紀に書いた畿内ヤマトと同じ国で、ずっと日本を支配してきました、というシナリオを作り上げたのです。

それではじめて、自分達の国を大和と書き「やまと」と読むようになったのです。

ですから、それ以前に自分達の国を「やまと」と読んでいた跡は、私の知る限りありません。
畿内に大和と書く以外の「やまと」とよぶ地名がないのは、もともと「やまと」とよんでいた地名が無かったからだと考えています。


よく畿内説の人が、畿内ヤマトと読みが良く似てるのは畿内に邪馬台国があった証拠だ等と言うことがありますが、これは因果がまったく逆なのです。

2009年11月2日月曜日

卑弥呼の没年 244年死亡説 その2

「正始元年にも倭王の文字が見えるが、これも男王のことなのか?」という突っ込みがありました。
確かに正始元年の記事にも倭王の文字がありますね。この正始元年の倭王は、梯儁が会った卑弥呼に間違いはないので、正始元年の倭王は卑弥呼のことです。
そしてこの文を受けて「其四年倭王復遣使~」なので、4年の倭王も卑弥呼のことと見るのが妥当であるといえます。
もし倭王が卑弥呼から誰かに替わっているのならば、そのことに触れられていないことに疑問が付きます。

しかしながら、この年次別の記事には欠陥と言える程の抜けが目立つのです。
8年の冒頭に新しい太守が来たことが書かれていますが、この唐突な話は6年に馬韓の反乱が起きて、これによって7年に太守の弓遵が戦死していることに依ります。そして太守の話自体が書かれているのは、6年にその太守を通して黄幢を授けさせる(黄幢付郡假授)ということがあり、その黄幢が8年の新太守の到官により張政によって届けられるという流れの話なのです。
しかし、それらの話がばっさり削られているために、ここの文だけではなんの為の文なのか分からなくなってしまっているのです。
さらに8年に「卑彌呼以死」が書かれ、あたかも卑弥呼が正始8年に死亡したかの様な記事として書かれているわけですが、ここは前回説明したように、正始元年に梯儁が帰ってから以降の倭国の経緯を書いているので、これらが8年にあったという事ではないのですが、このことも非常に分かりづらい文章となっています。
よく正始8年(248年)に倭に来た張政が、その後数年から十数年に倭に居たのではないかという説を見かけますが、これらもこの正始元年から正始8年に倭国で起こったことを8年の記事に書いているという分かりづらさから来た誤解といえます。

8年の記事にはもう1つ、再び倭の遣いが来て狗奴國との抗争について説明したこと(これによって張政が倭に派遣されることとなったこと)が書かれていますが、この8年の倭の遣いには倭王の文字はなく、誰が送ってきたのかぼかされたような書き方になっているのは、律儀な感じがして少し面白いところですね。

以上見てきたように、正始4年(244年)の倭王を卑弥呼と見るなら、卑弥呼の死は245年(244年の秋)から247年までの期間と言えます。
しかし、この年次別の文章の精度から、4年の倭王を卑弥呼の次の男王と見て、正始元年以降の2回の倭の遣いを倭国王の交代と関連させて考える説も、決して可能性のないことではないと私は考えています。

2009年10月20日火曜日

卑弥呼の没年 244年死亡説

倭人伝の最後のほうには、景初二年(238年)の記事の後に、正始元年(240年)からの出来事が記述されています。少し長いですが全文引用しておきます。


正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・帛・錦[四/(炎り)]・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。

其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青[糸兼]・緜衣・丹・木[犬付]・短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。

其八年、太守王[斤頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯・烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。


読み下しには他のサイトの和訳などを参考にしてください。

通常は、8年の記事に卑彌呼以死の文字があることから、8年か7年に卑弥呼が死亡したのだろうと解釈されています。まぁ普通の解釈云々は(一度書きかけましたが)皆もう分かっているだろうとして飛ばします。

まず政等以檄告喩壹與(張政等は檄により台与に告喩した)とあることから、この出来事が8年なのが分かります。もし壹與が立つ前に張政が来たなら男王に告喩したでしょう。わざわざ男王が失脚するのを待って告喩するなど考えられない話になってしまいます(未来が見えるオカルトですね)。
では、いつ壹與が立ったのかと見てみると、まぁ書いてないわけですが、逆に男王の記事がないかと見てみると、4年の記事に目が止まります。そう「倭王」です、驚いたことに実はちゃんと書いてあったのです。

正始元年、倭に来た梯儁は卑弥呼と会っていますから、この時までは卑弥呼は生きていたのは確実です。使いは夏に行われるので、おそらく4年か3年の後半に卑弥呼が死亡したのでしょう。そして次の男王が新王の報告も兼ねて4年に遣使したのではないでしょうか。

8年にその男王の後に立った壹與は狗奴國との窮状を魏に訴え、これによって張政が倭にくることになる訳ですが、もしかしたら壹與が立ったのは(男王同様)8年か7年の後半だったのかも知れません。

では卑彌呼以死から政等還までの出来事が8年の記事として書かれているのでしょうか。
8年に倭の遣いが来たことが起点になり張政が派遣され、その張政の報告として「正始元年以降の倭の出来事としてこういう事があったのです」と文章として記述されたために、これらの記事が8年のところにまとめて書かれる事となったのではないでしょうか。


244年(243年)卑弥呼死亡説、なかなか目新しく面白い説だと思いませんか?

まとめ

何回目の「まとめ」なのか数えるのが面倒になってきましたw
前回書いた張政の観音峠ルートのものとして、まとめてみました。
それ以前の文章は張政のルートを唐津街道ルートとして書かれているので混乱しないようにしてください。


私の説は、梯儁と張政の2度の魏使のルートが同一ではなかった、というものです。
別ルートの記録が同一ルートのように記述されているため、今までそのルートが不明とか不正確と言われてきたのではないか、と問題提起しているものです。


さて私説の2度の魏使のルートですが、末盧國以降それぞれ次のようなもとの考えています。
右の「」で書かれた部分は、私が考えている前國からの行程記事の原文の想像です。


<梯儁ルート>
末盧國      唐津市、松浦川流域
伊都國      前原市あたり        「東至伊都國」
奴國       福岡平野、那の川流域    「東至奴國」
不彌國      宇美町、須恵町あたり    「東至不彌國」
投馬國      久留米(筑後川上中流域)  「南至投馬國」
邪馬壹國     筑後川下流域        「南至邪馬壹國」


<張政ルート>
末盧國      唐津市、松浦川流域
B國(伊都國2) 古湯温泉または富士町あたり 「南東500里至(次の國)」
C國(奴國2)  肥前国庁跡あたり      「南東100里至(次の國)」
邪馬壹國     吉野ヶ里~筑後川下流域   「東100里至(次の國)」


また魏使のルートとは別に次の情報が混ざっていると考えています。
E國(投馬國2) 琉球(沖縄)        「水行20日」
(水行10日陸行1月は郡から邪馬壹國までの日数(倭人からの伝聞情報)で、水行20日の目安のための情報)

B國・C國やE國は、張政ルート上の名の分からない國を便宜的に名付けたものです。

2009年6月6日土曜日

張政ルートは唐津街道ルートか観音峠ルートか?

ここに来て張政ルートを改訂しようかと考えています。

唐津市から松浦川沿いの唐津街道を通って佐賀平野に抜ける道は、確かに倭人伝の記述にもよく合っており、また唐津街道自体も古くから使われていた道であり、確かに張政ルートとして非常に魅力的であります。
しかしそれ以上に私が惹かれているのが、唐津市から現国道323号の観音峠越えの道なのです。
このルートでは唐津市から東へ行きその後南へ下る、そこに古湯温泉があります。ここがB國、南東500里の國と見ることができます。(あるいは富士町の可能性もあるでしょうか)
古湯温泉からまた東に少し行きその後南に下ると肥前国庁跡(佐賀大和IC付近)にでます。これが南東100里のC國。
そこから東100里が吉野ヶ里(邪馬壹國の領域の一部)となります。

唐津街道ルートの方が南東という語感から受ける道程としてはぴったりなのではありますが、この観音峠ルートでは次のような点で唐津街道ルートより優位だと考えています。

1.邪馬壹國(筑後川下流域)に行くのには唐津街道ルートより距離が短いように思える。また唐津街道ルートは佐賀平野に抜けるのなら良いのでしょうが、この時の目的地は邪馬壹國(筑後川下流域)なのですから、観音峠ルートが採られたとしても不思議ではないです。
2.唐津街道ルートよりB國→南東100里→東100里という記述が合致しているように思えるところ。
3.唐津街道ルートならば倭人伝に川沿いである旨の記述がされるのではないかという疑念。

もっとも吉野ヶ里は3世紀半ばにはすでに衰退していたようなので、最後の東100里の行程の先が吉野ヶ里である必要性は低いのかもしれないです。そうなると唐津街道ルートでも方位の合っているルートを考えることが十分にできますが。


現時点では、唐津街道ルートなのか観音峠ルートなのか、まだどちらなのか決めかねているところです。
しかし一応言って(書いて)おかないと、後になって「私も考えていた」などというのは後だしジャンケンのように思われて嬉しくないので。

ちなみに観音峠ルートの存在は2chの掲示板で教えていただきました。この場をかりてお礼を申し上げます。

2009年4月30日木曜日

まとめ

一応、私説のまとめです。

私説の肝であり最もユニークなところは、梯儁と張政の2度の魏使のルートが同一ではなかった、という所です。
このような視点で倭人伝の記述をみると、今まで“謎”とされていた様々なものが容易に理解できるものになるという点があります。他の説が間違いとしてきた記述(方位・距離など)や、故意にか無視してきた記述(万2千里や日程への変化など)などに対し、最もまともな説明が現時点で出来ていると思われるのが私説です。

とはいえ異なるルートの記録が同一ルートの様に何故書かれたのか、誰がそう間違えたのか、という部分に関しては想像の域を超えませんし、実際の2度のルートがどちらがどのルートだったのかという部分に関しても私の憶測であることをご了承ください。

さて私説の2度の魏使のルートですが、末盧國以降それぞれ次のようなもとの考えています。
右の「」で書かれた部分は、私が考えている前國からの行程記事の原文の想像です。


<梯儁ルート>
末盧國      唐津市、松浦川流域
伊都國      前原市あたり        「東至伊都國」
奴國       福岡平野、那の川流域    「東至奴國」
不彌國      宇美町、須恵町あたり    「東至不彌國」
投馬國      久留米(筑後川上中流域)  「南至投馬國」
邪馬壹國     吉野ヶ里~筑後川下流域   「南至邪馬壹國」


<張政ルート>
末盧國      唐津市、松浦川流域
B國(伊都國2) 小城市または多久市あたり  「南東500里至」
C國(奴國2)  佐賀市あたり        「南東100里至」
邪馬壹國     吉野ヶ里~筑後川下流域   「東100里至」


また魏使のルートとは別に次の情報が混ざっていると考えています。
E國(投馬國2) 琉球(沖縄)        「水行20日」
(水行10日陸行1月は郡から邪馬壹國までの日数(倭人からの伝聞情報)で、水行20日の目安のための情報)

B國・C國やE國は、張政ルート上の名の分からない國を便宜的に名付けたものです。

2009年4月22日水曜日

水行二十日、水行十日、陸行一月は行程か?3

これまで見たように水行二十日、水行十日陸行一月は行程記事ではないものが紛れ込んだと考えられるわけですが、何故そのようなことが起きたのか考えてみようと思います。

計其道里 當在 會稽東冶之東

は倭の場所を示す有名な倭人伝の一文ですが、この會稽の東冶の東とは沖縄あたりになり、当時の中華人が倭を非常に南北に長い土地だと認識していたことが分かります。

そこで倭人伝をみていると、私の説の考察が正しいとするなら、3回の渡海の後、陸行では東南および東に数百里進んだだけで張政の里程記事が終わります。
これでは南北に広い倭の北の一部だけの領域でしかありません。
しかし梯儁はあと2回南に行く行程記事を残しています。梯儁の報告書には国間の距離は書かれていなかったと私はみているのですが、ここに「水行二十日」と「水行十日陸行一月」という2つの日程が、上記の「南北に長い倭」という(誤った)知識と重なり、三国志にかかれたような文章になったのではないでしょうか。

さらにいうなら不彌國までの里程記事の里も魏の1里=440m程度のものという誤解から、不彌國までの里程距離と水行二十日や水行十日陸行一月といった距離との差は相対的に少ないものとなりますので、混入される際に大きな障害とはなりえなかったのでしょう。


ところで、このような間違いをしでかしたのは誰かというと、私は陳寿ではないように感じます。実はタイトルに偽りありなんです。

陳寿はどちらかというと自分の考えを入れたものは書いてはいないようで、間違えていると思うものや矛盾しているものなども、それぞれの元資料をなるべくそのまま残すような書き方をしているように感じます。
今回の水行二十日や水行十日陸行一月の行程記事も、誰かがまとめて書いたそのような資料を、なるべくそのまま書き残しているように思えます。

このような陳寿の編集姿勢に私は、陳寿が今の時代の私たちに、自分たちが生きた時代にはこのように知られ・考えられていましたが、実際のところはどうだったのでしょう? と問いかけてきているような錯覚を感じるのですが、皆さんはどうでしょう。

水行二十日、水行十日、陸行一月は行程か?2

今度は逆に、例えばこの2つが伝の記述になかったとしたら、どうだろうか?と考えてみましょう。

南至投馬國 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳[革是] 可七萬餘戸

不彌國の南に投馬國があり、そのさらに南に邪馬臺國がある。距離はないものの、不彌國までの陸行の距離を考えるとそう遠くないところにこの2国はあると考えられるでしょう。これは後にでてくる

自郡至女王國 萬二千餘里

によっても支持されます。(よく言われる単純な足し引き算で不彌國~邪馬臺國は1300里余)
つまり投馬國や邪馬臺國は不彌國からそれほど遠くない南方にある国だということが分かります。

もし定説福岡平野ルートならば、丁度私が梯儁ルートとして示しているルート、つまり伊都國・奴國の定説比定地を経て宇美町・須恵町あたりの不彌國から南下し、久留米=投馬國を経て邪馬臺國=筑後川下流域へと至る行程と考えられるでしょう。

またもし、末盧國から南東に佐賀平野へ抜けるルートとして考えたとしても、吉野ヶ里あたりを不彌國とし、その南に投馬國・邪馬臺國を考える八女説あたりに近い解釈となるでしょう。


もし水行二十日と水行十日陸行一月がなければ、おそらくこのどちらかの説で邪馬臺國の比定地争いは収束したことでしょう。
このように考えると、この2文のおかげで日本全国に比定地ができるという楽しい状況をつくったのですから、すごいものですね。

畿内説や四国説、あるいは長崎や宮崎といった説、これらの水行二十日、水行十日陸行一月にたよった説が、非常に頼りないものであると言えるのではないでしょうか。



ちなみに「水行二十日」がないだけの場合も、「水行十日陸行一月」は全体の距離を日数で書いたのであろう、という推測が早くから出てきたことでしょうね。
もっとも私は、水行十日陸行一月は水行二十日の説明のためのものだとみているので、水行二十日がなければ水行十日陸行一月が書かれることはなかっただろうと見ていますが。

水行二十日、水行十日、陸行一月は行程か?1

やはり一番の大きな謎といえば、水行二十日と水行十日陸行一月の2つの文でしょう。
これらについて少し補足しておこうと思います。

私の考えはこの2つの文は行程記事ではないとして外してあるわけですが、その理由としては次のような考えからです。

不彌國までの里程からいきなり日数による距離表示になることの引っかかり。
里は距離をあらわす単位であり、日は時間をあらわす単位です。
後の隋書に「夷人不知里數但計以日」(東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。)と書かれるように、もし魏使が直接に計ったものであるならば日数での記録はおかしいでしょう。

また、不彌國までは100里しか離れていない千余家しかない小国のことまで記述しているのに対し、水行二十日と水行十日陸行一月ではその間の国がまったく出てこないのは不可思議といえるでしょう。
はたして20日の水行ではどこにも寄港しなかったのでしょうか、水行十日陸行一月では上陸した場所はどこかの国の港ではなく、何もないようなところに船を乗り捨てるように上陸したとでも言うのでしょうか。さらに陸行一月はわざと国をさけて歩いたのでしょうか。

このように、水行二十日と水行十日陸行一月を行程記事としてみると、そこには矛盾といってもよい程の非常に大きな疑問が残ることになるのです。


# ここで一つ注意。日数記事をもって魏使が邪馬臺國に行っていないという考えは間違い、倭人伝全体を読めば詳しい記述から邪馬臺國まで行っていることは明らかです。行っていないという説は行程記事の部分しか見ていない説と言ってよいでしょう。