これまで見たように水行二十日、水行十日陸行一月は行程記事ではないものが紛れ込んだと考えられるわけですが、何故そのようなことが起きたのか考えてみようと思います。
計其道里 當在 會稽東冶之東
は倭の場所を示す有名な倭人伝の一文ですが、この會稽の東冶の東とは沖縄あたりになり、当時の中華人が倭を非常に南北に長い土地だと認識していたことが分かります。
そこで倭人伝をみていると、私の説の考察が正しいとするなら、3回の渡海の後、陸行では東南および東に数百里進んだだけで張政の里程記事が終わります。
これでは南北に広い倭の北の一部だけの領域でしかありません。
しかし梯儁はあと2回南に行く行程記事を残しています。梯儁の報告書には国間の距離は書かれていなかったと私はみているのですが、ここに「水行二十日」と「水行十日陸行一月」という2つの日程が、上記の「南北に長い倭」という(誤った)知識と重なり、三国志にかかれたような文章になったのではないでしょうか。
さらにいうなら不彌國までの里程記事の里も魏の1里=440m程度のものという誤解から、不彌國までの里程距離と水行二十日や水行十日陸行一月といった距離との差は相対的に少ないものとなりますので、混入される際に大きな障害とはなりえなかったのでしょう。
ところで、このような間違いをしでかしたのは誰かというと、私は陳寿ではないように感じます。実はタイトルに偽りありなんです。
陳寿はどちらかというと自分の考えを入れたものは書いてはいないようで、間違えていると思うものや矛盾しているものなども、それぞれの元資料をなるべくそのまま残すような書き方をしているように感じます。
今回の水行二十日や水行十日陸行一月の行程記事も、誰かがまとめて書いたそのような資料を、なるべくそのまま書き残しているように思えます。
このような陳寿の編集姿勢に私は、陳寿が今の時代の私たちに、自分たちが生きた時代にはこのように知られ・考えられていましたが、実際のところはどうだったのでしょう? と問いかけてきているような錯覚を感じるのですが、皆さんはどうでしょう。
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