2009年4月22日水曜日

水行二十日、水行十日、陸行一月は行程か?1

やはり一番の大きな謎といえば、水行二十日と水行十日陸行一月の2つの文でしょう。
これらについて少し補足しておこうと思います。

私の考えはこの2つの文は行程記事ではないとして外してあるわけですが、その理由としては次のような考えからです。

不彌國までの里程からいきなり日数による距離表示になることの引っかかり。
里は距離をあらわす単位であり、日は時間をあらわす単位です。
後の隋書に「夷人不知里數但計以日」(東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。)と書かれるように、もし魏使が直接に計ったものであるならば日数での記録はおかしいでしょう。

また、不彌國までは100里しか離れていない千余家しかない小国のことまで記述しているのに対し、水行二十日と水行十日陸行一月ではその間の国がまったく出てこないのは不可思議といえるでしょう。
はたして20日の水行ではどこにも寄港しなかったのでしょうか、水行十日陸行一月では上陸した場所はどこかの国の港ではなく、何もないようなところに船を乗り捨てるように上陸したとでも言うのでしょうか。さらに陸行一月はわざと国をさけて歩いたのでしょうか。

このように、水行二十日と水行十日陸行一月を行程記事としてみると、そこには矛盾といってもよい程の非常に大きな疑問が残ることになるのです。


# ここで一つ注意。日数記事をもって魏使が邪馬臺國に行っていないという考えは間違い、倭人伝全体を読めば詳しい記述から邪馬臺國まで行っていることは明らかです。行っていないという説は行程記事の部分しか見ていない説と言ってよいでしょう。

1 件のコメント:

Kats-I さんのコメント...

「日「」は距離の単位と仮定したのですが、いかがでしょうか。