2020年11月21日土曜日

邪馬台国(魏志倭人伝)の新しい話

最近になって新しいアイデアが確信に変わったので記しておく。 卑弥呼の死の際に、張政が来た時にはすでに台与が女王であったという話をした。そして台与が女王になるまでの過程を伝聞として、卑弥呼が死んだから始まって男王となって台与に代わった、と倭人が伝えたのだと。ここで問題は、なぜ男王が出てきたのかというところだ。今はすでに台与が王なのだから、卑弥呼から台与に王が代わりました、で済む話である。そこにわざわざ男王が出てきたのは、出てこざるを得ない理由があったのではないかと考えられる。それが正始四年の朝貢ではないだろうか。つまり、この四年を行ったのは男王で、卑弥呼に代わって新しい王となったことを魏側に伝えたのであろう。そうなれば八年の時点では、すでに魏側は男王の存在を認識しているのであるから、卑弥呼から台与に代わったと男王を無視することができなくなる。どうしても卑弥呼から男王に代わり、さらに男王から台与に代わった、という説明にならざるを得ないわけである。 これで八年の記事を見返してみると、八年に倭からの遣いが援軍要請をしているのであるが、その文が『卑弥呼が不和』というだけしか書かれていない。しかしながら、この時点で既に倭の王は台与であるから、最低でも男王に代わり台与が新たな王となったことは当然に伝えたであろうし、それに加えて男王が王となったが内乱が起こり千人が死亡し、そこに狗奴国が攻めてきたから助けてほしい、という説明をしていたということになる。 とすると張政が使わされるのはこの後であるので、張政は倭の王が台与に代わっていることも当然に知った状態で倭に来ていたということだ。卑弥呼の墓の話などは張政が直接に見聞したことであろうが、それ以外は張政が聞いたことではなく、来る前に倭側から伝えられていたことであったわけだ。 逆にもし張政が倭に来てから、倭の王が台与に代わっていたことを知ったとするとどうであろう。朝貢貿易の性質から張政は倭の王に対する賜物も持って行ったと考えられる。ところが倭に着いてみたら王が台与とかいう人物に代わっていたと言われ、それではと台与に賜物を渡すであろうか。賜物は帝からの預かりものであるから、もし独断で勝手に他の誰かに渡したとなると死刑となってもおかしくないほどの重罪であろう。であるから張政は、すでに台与が新たな王であることを知って倭に来たのだと考えられる。 しかしこの部分、やけにぼやかして書かれているような気がする。朝貢貿易の性質から倭の王への賜物もあったはずなのであるが、六年の記事から難升米に黃幢を賜ることしか書かれておらず、八年の記事でも黃幢以外の賜物、難升米以外への賜物がなかったかのように書かれている。これはどういうことなのかというと、この八年の倭への賜物というのは四年の朝貢に対する返礼であり、この四年の朝貢は男王が行ったものだったので、この八年の賜物も男王にされたものであったわけである。ところが新しく帯方郡の太守となった王頎が、倭の遣いからの説明で新たに倭の王となった台与に、本来なら帝に使者を送って賜物を新たな王の台与に渡してもよいか承認をとらなければならなかったところを、その賜物を“勝手に”台与に与えたことに後で気が付き、倭の王への賜物の記述をごっそり削った文章にした可能性もあるだろう。 それはともかく、男王から台与への代替わりの話が、魏志倭人伝に書かれているように張政が倭に来てから分かったことではなく、張政が倭に来る前に倭の使いによって伝えられていたことであった、ということが分かっただけでも、なかなかに興味深い話である。 しかしながら、今回はそこで終わらないのである。 男王から台与に王が代わった話は本当であろうか。張政が倭に来た時に、確かに張政は台与に『檄告喻』している。であるならば台与が倭の王であったことは確実である。しかしながら、この台与が倭の王であるというのが全て“倭側のお芝居”であったとしたらどうだろうか。その前に、なぜそのようなお芝居をする必要があったのかを説明しておく。 何度も買いたような気がするが、正始四年に男王が朝貢を行っている。しかしこの朝貢に対する返礼が、来なかったのである。私たちは魏側の事情も知っているので、六年の時点でその返礼の賜物を授けるように命が下っていたことを知っているが、当時の倭人にそのことを知る術はなく、卑弥呼の時には2年後に来た返礼が男王の時には2年経っても3年経ってもやってこない、ということになっていたのである。さらにそこに南の狗奴国が攻めてきたので、八年の援軍要請となったわけだ。 しかし魏に援軍を要請して、魏は動いてくれるであろうか。少しさめた見方をするならば、魏が付きあうのは邪馬台国でも狗奴国でもどちらでも良く、もし邪馬台国(連合、以下連合は略)が狗奴国に滅ぼされるようならば狗奴国と付きあえば良い、と魏側が考えるならば魏は援軍を出したりはしないだろう。であるから倭としては、魏が邪馬台国を助けることがメリットのあることであると思わせなければならない。そこで、邪馬台国は強大で今後も十分に長い期間存続していくだろうから、今助けて恩を売っておくことは魏にとってもメリットになる、と思わせなければならない。しかしその強大な国が、他の国から攻められるというのはおかしな話ということになる。そこで、邪馬台国は本来は強大な軍事力を持った国であるが、内乱が起きて弱体化した隙を衝かれて他国から攻められている、だから今だけ援軍を出してもらい乗り切れば、その後は長く安定するだろう。だから魏がわが国を助けるメリットは十分にあるはずだ。ということにしたのではないだろうか。さらに、3年経っても返礼のこない男王ではなく、2年で返礼のきた女王を新たな王とし、そのごたごたで邪馬台国が弱体化した、というストーリーをでっち上げたのではないだろうか。 正始元年に倭に梯儁が来た時には、伊都国をして帯方郡と同じように邪馬台国連合の窓口となる国であり、女王卑弥呼は魏の帝のように奥地の別の大国に居て、魏と同じようにそれらの国々を支配する体制を作って統治しているのだと、いかに自分たちの国が進んだシステムを取り入れた文明国であるかをアピールしていたくらいだ。ところが、男王が新たに王になっても多くの人が従わなかっただの、内乱が起きて千人もの人々が死んだだの、言ってみれば自国の恥になるようなことをわざわざ魏に伝えているのだ。男王から台与に王が代わった、狗奴国から攻められているから援軍を出してほしい、それだけで十分でもあるはずなのに、なぜわざわざ倭の遣いはそのようなことまで魏に説明したのだろうか。 やはりそれは、すべて倭側が作った作り話であったからではないだろうか。そうであるならば、この男王というのは、魏志倭人伝に書かれているようなすぐに失脚してしまう人物などではなく、自分の名誉を捨ててでも魏から援軍を取り付け、邪馬台国連合の人々を守ろうとした、立派な人物だったのかも知れない。 私が魏志倭人伝を読んで最初ごろに疑問に感じていたことを最近になって思い出した。それは、この男王という人物はなぜ倭の王になれたのであろうか、というものであった。すぐに失脚してしまうような人物が王に成れたというのは非常に不思議に思えたものだ。 もしかしたらその答えを得たのかも知れない。

2011年11月20日日曜日

先日のアイデアの練り直し。

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量子力学により、真空は何も無い空間ではなく、仮想粒子が対生成や対消滅を起こしている状態であることが分かってきた。これにより、真空中を走る光もその影響を受けると考えることが出来る。

光の真空中の速度 c
光の論理上の速度を c0
とし
光の真空屈折率 nc
というものを想定すると

c0 = c × nc

なる関係が成り立っていると考えることが出来る。
これはニュートリノについても同様と考えられ、

ニュートリノの真空中の速度 vν
ニュートリノの論理上の速度を vν0
ニュートリノの真空屈折率 nν
とし、
情報等の伝達速度の上限 ヨ
とすると

ヨ = c0 = c × nc
ヨ > vν0 = vν × nν

とう関係が成り立っていることになる。

ここで、光が真空から受ける相互作用のほうが、ニュートリノが受けるそれより大きいと考えられるので、真空屈折率は光のほうがニュートリノより大きい。つまり

nc > nν > 1

ニュートリノの速度が十分に速い場合は

ヨ = c0 = c × nc > vν0 = vν × nν > vν > c

と成りえることがある。


荷電粒子が媒体中の光より速い場合はチェレンコフ放射が起こるが、これと同様の現象がニュートリノが重力より速い場合も起こるのではないだろうか。ニュートリノが真空中の重力波より速い場合、重力波のチェレンコフ放射が起こり、これによりニュートリノの速度が真空中の重力波と同速度まで減速されると考えられるであろう。光の論理上の速度と重力波の理論上の速度は共に情報等の伝達速度の上限"ヨ"に等しいが、何らかの機構で真空中の光の速度と真空中の重力波の速度が等しくなるならば、長距離を走るニュートリノは真空中の光速度と等しくなると考えられる。

2011年11月18日金曜日

光とニュートリノの真空中の速度について

量子力学により、真空は何も無い空間ではなく、仮想粒子が対生成や対消滅を起こしている状態であることが分かってきた。これにより、真空中を走る光もその影響を受けると考えることが出来る。

光の真空中の速度 c
光の論理上の速度を c0
とし
光の真空屈折率 nν
というものを想定すると

c0 = c × nc

なる関係が成り立っていると考えることが出来る。
これはニュートリノについても同様と考えられ、

ニュートリノの真空中の速度 vν
ニュートリノの論理上の速度を vν0
ニュートリノの真空屈折率 nν
とし、
情報等の伝達速度の上限 ヨ
とすると

ヨ = c0 = c × nc
= vν0 = vν × nν

とう関係が成り立っていることになる。

ここで、光が真空から受ける相互作用のほうが、ニュートリノが受けるそれより大きいと考えられるので、真空屈折率は光のほうがニュートリノより大きい。つまり

nc > nν >= 1

これらより

c = vν × ( nν / nc )

c < vν

が示される。



2011/11/18 杉森

2010年9月20日月曜日

邪馬台国=アマギ国?

新しい説を思い付いていて、
それをあまぎはらはらと言うのだけれど。
しかし穴は大きいか、埋まらない。
さて、どうしたものかな。

2010年6月14日月曜日

大倭と一大率

大倭は大率の写し間違いではないか、という考察です。
大倭の書かれている文章は以下の通り。

A:收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。
B:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
C:於國中有如刺史。
D:王遣使詣京都・帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書・賜遣之物詣女王、不得差錯。

Aで大倭が國々に居る事が書かれている。
Bで(唐突に)一大率のことが書かれていて、伊都國に居る。
Cで刺史の如くと書かれているが、於國中から伊都國にしかいない一大率のことではないとされている。
Dの文は皆臨津など伊都國のことと考えられている。

このように短い1連の文のなかに、大倭と一大率と如刺史な者という3つの異なる役職などのことが書かれていることと、
伊都國について書かれているのか倭の國々についてなのか混乱しているように読めるところがある。

大倭を大率の間違いとすると、これらの文が全て大率についての文章であると読め、
伊都國に大率のトップを特置一大率していて、如刺史は國々の市を監する大率のこと、
一大率の元、伊都國で皆臨津~している、と一連の流れとして読むことができる。

2009年11月24日火曜日

少し違った2つのルート説のまとめ

とある掲示板に書き込んだ内容ですが、上手く書けたように思いますので転記しておきます。

まずはじめに、現状の認識をもう一度確認しておきましょう。
末盧国を唐津市、伊都国を前原市、奴国を福岡平野、不彌国を宇美町に比定する考えは、
遺跡などの考古学的な裏付けもあり、金印や地名川名といった名残も見られるため、
これらを間違いと考えるのは非常に困難なことになります。

ところが倭人伝の記述からは、末盧国から南東に佐賀平野へ抜けるように書かれています。
この方位・里数は、伊都国を前原市、奴国を福岡平野と比定するものには全く合いません。

そして倭人伝には、”2度”の魏の使いがあったことが書かれています。
この魏の使いが2度あったことは、いままで非常に蔑ろにされていた事実です。

これらをまとめると、以下のようなことが言えます。
・倭人伝には末盧国から福岡平野へ抜けるルートが書かれている
・倭人伝には末盧国から佐賀平野へ抜けるルートが書かれている
・倭人伝には2度の使いがあったことが書かれている

ここから導き出される結論としては、
1)魏の2度の使いは、共に福岡平野へ抜けるルートを通った
2)魏の2度の使いは、共に佐賀平野へ抜けるルートを通った
3)魏の2度の使いは、福岡平野へと佐賀平野へのそれぞれ別のルートを通った
の3つのうち、最後の3)になるでしょう。
他の2つの候補は、考えにくいものであることが良くわかるのではないかと思います。


この2つのルートをそれぞれ福岡平野ルート、佐賀平野ルートと呼ぶことにしますと、倭人伝の記述は、
福岡平野ルート:末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・邪馬台国
佐賀平野ルート:南東500里・南東100里・東100里
ということです。

佐賀平野ルートは分かりやすいですね、末盧国から南東500里・南東100里・東100里で邪馬台国です。

福岡平野ルートを考えると、方位・距離は不彌国までは佐賀平野ルートのものが書かれているのですが、
その後の不彌国→投馬国と投馬国→邪馬台国の方位は、佐賀平野ルートのものではないので、
ここの2度の南という方位は、おそらく福岡平野ルートのものが書かれているのではないかと考えられます。
また少し恣意的な感じがするかもしれませんが、福岡平野ルートと佐賀平野ルートが共に同じ邪馬台国にたどり着くのですから、
福岡平野ルートは不彌国より後は南に行くことになるわけですが、これは正に倭人伝の記述どおりだといえます。

福岡平野ルートも国名以外にも方位も書かれていたようだと分かったところで、では距離(里程)はどうかと考えてみると、
郡から邪馬台国まで12000里という記述がありますので、これが正に福岡平野ルートのものではないかと思えます。
国名以外にも方位も書いてあるなら里程も書いてあっておかしくない訳ですが、倭人伝にはちゃんと書かれていたということですね。
佐賀平野ルートの里程の合計が郡から10700里というのは、2つのルートの距離の差として妥当なものでしょう。

福岡平野ルートからみれば、国名も方位も里程も書いてあったものに、勝手に他の情報(佐賀平野ルートの方向と里程)を紛れ込まされた、といった感じでしょうか。
同様の考えで、2つの日程の水行20日と水行10日陸行1月も、何か別の情報が紛れ込んだものといえます。

この水行20日と水行10日陸行1月についてもう少し考えてみましょう。

邪馬台国が水行20日(おそらく南)の国と、交易など何らかの関係があったことの記録でしょう。
佐賀平野ルートにおいて、邪馬台国は末盧国から3つ目の国ですから、
「末盧国から3つ目の国から水行20日」という行程情報になります。
ところで福岡平野ルートでは末盧国から3つ目の国というのは不彌国です。
ここで「不彌国から南に水行20日」という情報に化けて行程に入り込んだとも考えられます。

また水行10日陸行1月は、郡から邪馬台国までの倭人情報の日数と考えると、
”郡から”が抜けて(あるいは恣意的に無視して)「邪馬台国まで水行10日陸行1月」という情報に化けて入り込んだものとも考えられます。
もっとも「水行20日」も使い切ってしまい、他に距離の情報がなかったと考えるべきかもしれませんが、
この考えが正しければ、水行20日も水行10日陸行1月も、出発点か終着点のどちらかは間違っていない情報だったと言えます。

大和と畿内ヤマトと邪馬台国

畿内ヤマトは邪馬台国とは別の国

これが私の結論ですが、この邪馬台とヤマトの音がよく似ていることは、畿内ヤマト説の根拠の1つになっていたりしますが、これに付いて私の見解を書いておきます。

まず知らない人に、大和から説明しておきますと、これは元々中華人が日本のことを倭と呼んだことに由来します。
漢の時代に100余国に分かれていたのが後に1つの国とまとまったため、これを大倭と書くようになりました。
この大倭の倭の文字を、日本人が自分達の好きな和の文字に変えて大和と書くようになったものです。


この大和の読み「やまと」の由来ですが、私は次のように考えています。

畿内ヤマト王権は国産みからずっと自分達が日本を支配してきたことにしたかったのは、日本書紀をみればあきらかなのですが、このことに都合の悪いのが三国志に書かれた邪馬台国なわけです。
中国の書籍に書かれたことを間違いだとは言えませんから、当時日本を支配していた邪馬台国とは自分達の国のことだ、とすることにしたのです。
そうしなければ、邪馬台国という別の国が日本を治めてきたことになりますからね。

そこで三国志に書かれた邪馬台国の音つまり「やまと」をとって自分達の国の名前としたのです。
こうして、三国志に書かれた邪馬台国は日本書紀に書いた畿内ヤマトと同じ国で、ずっと日本を支配してきました、というシナリオを作り上げたのです。

それではじめて、自分達の国を大和と書き「やまと」と読むようになったのです。

ですから、それ以前に自分達の国を「やまと」と読んでいた跡は、私の知る限りありません。
畿内に大和と書く以外の「やまと」とよぶ地名がないのは、もともと「やまと」とよんでいた地名が無かったからだと考えています。


よく畿内説の人が、畿内ヤマトと読みが良く似てるのは畿内に邪馬台国があった証拠だ等と言うことがありますが、これは因果がまったく逆なのです。