一応、私説のまとめです。
私説の肝であり最もユニークなところは、梯儁と張政の2度の魏使のルートが同一ではなかった、という所です。
このような視点で倭人伝の記述をみると、今まで“謎”とされていた様々なものが容易に理解できるものになるという点があります。他の説が間違いとしてきた記述(方位・距離など)や、故意にか無視してきた記述(万2千里や日程への変化など)などに対し、最もまともな説明が現時点で出来ていると思われるのが私説です。
とはいえ異なるルートの記録が同一ルートの様に何故書かれたのか、誰がそう間違えたのか、という部分に関しては想像の域を超えませんし、実際の2度のルートがどちらがどのルートだったのかという部分に関しても私の憶測であることをご了承ください。
さて私説の2度の魏使のルートですが、末盧國以降それぞれ次のようなもとの考えています。
右の「」で書かれた部分は、私が考えている前國からの行程記事の原文の想像です。
<梯儁ルート>
末盧國 唐津市、松浦川流域
伊都國 前原市あたり 「東至伊都國」
奴國 福岡平野、那の川流域 「東至奴國」
不彌國 宇美町、須恵町あたり 「東至不彌國」
投馬國 久留米(筑後川上中流域) 「南至投馬國」
邪馬壹國 吉野ヶ里~筑後川下流域 「南至邪馬壹國」
<張政ルート>
末盧國 唐津市、松浦川流域
B國(伊都國2) 小城市または多久市あたり 「南東500里至」
C國(奴國2) 佐賀市あたり 「南東100里至」
邪馬壹國 吉野ヶ里~筑後川下流域 「東100里至」
また魏使のルートとは別に次の情報が混ざっていると考えています。
E國(投馬國2) 琉球(沖縄) 「水行20日」
(水行10日陸行1月は郡から邪馬壹國までの日数(倭人からの伝聞情報)で、水行20日の目安のための情報)
B國・C國やE國は、張政ルート上の名の分からない國を便宜的に名付けたものです。
2009年4月30日木曜日
2009年4月22日水曜日
水行二十日、水行十日、陸行一月は行程か?3
これまで見たように水行二十日、水行十日陸行一月は行程記事ではないものが紛れ込んだと考えられるわけですが、何故そのようなことが起きたのか考えてみようと思います。
計其道里 當在 會稽東冶之東
は倭の場所を示す有名な倭人伝の一文ですが、この會稽の東冶の東とは沖縄あたりになり、当時の中華人が倭を非常に南北に長い土地だと認識していたことが分かります。
そこで倭人伝をみていると、私の説の考察が正しいとするなら、3回の渡海の後、陸行では東南および東に数百里進んだだけで張政の里程記事が終わります。
これでは南北に広い倭の北の一部だけの領域でしかありません。
しかし梯儁はあと2回南に行く行程記事を残しています。梯儁の報告書には国間の距離は書かれていなかったと私はみているのですが、ここに「水行二十日」と「水行十日陸行一月」という2つの日程が、上記の「南北に長い倭」という(誤った)知識と重なり、三国志にかかれたような文章になったのではないでしょうか。
さらにいうなら不彌國までの里程記事の里も魏の1里=440m程度のものという誤解から、不彌國までの里程距離と水行二十日や水行十日陸行一月といった距離との差は相対的に少ないものとなりますので、混入される際に大きな障害とはなりえなかったのでしょう。
ところで、このような間違いをしでかしたのは誰かというと、私は陳寿ではないように感じます。実はタイトルに偽りありなんです。
陳寿はどちらかというと自分の考えを入れたものは書いてはいないようで、間違えていると思うものや矛盾しているものなども、それぞれの元資料をなるべくそのまま残すような書き方をしているように感じます。
今回の水行二十日や水行十日陸行一月の行程記事も、誰かがまとめて書いたそのような資料を、なるべくそのまま書き残しているように思えます。
このような陳寿の編集姿勢に私は、陳寿が今の時代の私たちに、自分たちが生きた時代にはこのように知られ・考えられていましたが、実際のところはどうだったのでしょう? と問いかけてきているような錯覚を感じるのですが、皆さんはどうでしょう。
計其道里 當在 會稽東冶之東
は倭の場所を示す有名な倭人伝の一文ですが、この會稽の東冶の東とは沖縄あたりになり、当時の中華人が倭を非常に南北に長い土地だと認識していたことが分かります。
そこで倭人伝をみていると、私の説の考察が正しいとするなら、3回の渡海の後、陸行では東南および東に数百里進んだだけで張政の里程記事が終わります。
これでは南北に広い倭の北の一部だけの領域でしかありません。
しかし梯儁はあと2回南に行く行程記事を残しています。梯儁の報告書には国間の距離は書かれていなかったと私はみているのですが、ここに「水行二十日」と「水行十日陸行一月」という2つの日程が、上記の「南北に長い倭」という(誤った)知識と重なり、三国志にかかれたような文章になったのではないでしょうか。
さらにいうなら不彌國までの里程記事の里も魏の1里=440m程度のものという誤解から、不彌國までの里程距離と水行二十日や水行十日陸行一月といった距離との差は相対的に少ないものとなりますので、混入される際に大きな障害とはなりえなかったのでしょう。
ところで、このような間違いをしでかしたのは誰かというと、私は陳寿ではないように感じます。実はタイトルに偽りありなんです。
陳寿はどちらかというと自分の考えを入れたものは書いてはいないようで、間違えていると思うものや矛盾しているものなども、それぞれの元資料をなるべくそのまま残すような書き方をしているように感じます。
今回の水行二十日や水行十日陸行一月の行程記事も、誰かがまとめて書いたそのような資料を、なるべくそのまま書き残しているように思えます。
このような陳寿の編集姿勢に私は、陳寿が今の時代の私たちに、自分たちが生きた時代にはこのように知られ・考えられていましたが、実際のところはどうだったのでしょう? と問いかけてきているような錯覚を感じるのですが、皆さんはどうでしょう。
水行二十日、水行十日、陸行一月は行程か?2
今度は逆に、例えばこの2つが伝の記述になかったとしたら、どうだろうか?と考えてみましょう。
南至投馬國 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳[革是] 可七萬餘戸
不彌國の南に投馬國があり、そのさらに南に邪馬臺國がある。距離はないものの、不彌國までの陸行の距離を考えるとそう遠くないところにこの2国はあると考えられるでしょう。これは後にでてくる
自郡至女王國 萬二千餘里
によっても支持されます。(よく言われる単純な足し引き算で不彌國~邪馬臺國は1300里余)
つまり投馬國や邪馬臺國は不彌國からそれほど遠くない南方にある国だということが分かります。
もし定説福岡平野ルートならば、丁度私が梯儁ルートとして示しているルート、つまり伊都國・奴國の定説比定地を経て宇美町・須恵町あたりの不彌國から南下し、久留米=投馬國を経て邪馬臺國=筑後川下流域へと至る行程と考えられるでしょう。
またもし、末盧國から南東に佐賀平野へ抜けるルートとして考えたとしても、吉野ヶ里あたりを不彌國とし、その南に投馬國・邪馬臺國を考える八女説あたりに近い解釈となるでしょう。
もし水行二十日と水行十日陸行一月がなければ、おそらくこのどちらかの説で邪馬臺國の比定地争いは収束したことでしょう。
このように考えると、この2文のおかげで日本全国に比定地ができるという楽しい状況をつくったのですから、すごいものですね。
畿内説や四国説、あるいは長崎や宮崎といった説、これらの水行二十日、水行十日陸行一月にたよった説が、非常に頼りないものであると言えるのではないでしょうか。
ちなみに「水行二十日」がないだけの場合も、「水行十日陸行一月」は全体の距離を日数で書いたのであろう、という推測が早くから出てきたことでしょうね。
もっとも私は、水行十日陸行一月は水行二十日の説明のためのものだとみているので、水行二十日がなければ水行十日陸行一月が書かれることはなかっただろうと見ていますが。
南至投馬國 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳[革是] 可七萬餘戸
不彌國の南に投馬國があり、そのさらに南に邪馬臺國がある。距離はないものの、不彌國までの陸行の距離を考えるとそう遠くないところにこの2国はあると考えられるでしょう。これは後にでてくる
自郡至女王國 萬二千餘里
によっても支持されます。(よく言われる単純な足し引き算で不彌國~邪馬臺國は1300里余)
つまり投馬國や邪馬臺國は不彌國からそれほど遠くない南方にある国だということが分かります。
もし定説福岡平野ルートならば、丁度私が梯儁ルートとして示しているルート、つまり伊都國・奴國の定説比定地を経て宇美町・須恵町あたりの不彌國から南下し、久留米=投馬國を経て邪馬臺國=筑後川下流域へと至る行程と考えられるでしょう。
またもし、末盧國から南東に佐賀平野へ抜けるルートとして考えたとしても、吉野ヶ里あたりを不彌國とし、その南に投馬國・邪馬臺國を考える八女説あたりに近い解釈となるでしょう。
もし水行二十日と水行十日陸行一月がなければ、おそらくこのどちらかの説で邪馬臺國の比定地争いは収束したことでしょう。
このように考えると、この2文のおかげで日本全国に比定地ができるという楽しい状況をつくったのですから、すごいものですね。
畿内説や四国説、あるいは長崎や宮崎といった説、これらの水行二十日、水行十日陸行一月にたよった説が、非常に頼りないものであると言えるのではないでしょうか。
ちなみに「水行二十日」がないだけの場合も、「水行十日陸行一月」は全体の距離を日数で書いたのであろう、という推測が早くから出てきたことでしょうね。
もっとも私は、水行十日陸行一月は水行二十日の説明のためのものだとみているので、水行二十日がなければ水行十日陸行一月が書かれることはなかっただろうと見ていますが。
水行二十日、水行十日、陸行一月は行程か?1
やはり一番の大きな謎といえば、水行二十日と水行十日陸行一月の2つの文でしょう。
これらについて少し補足しておこうと思います。
私の考えはこの2つの文は行程記事ではないとして外してあるわけですが、その理由としては次のような考えからです。
不彌國までの里程からいきなり日数による距離表示になることの引っかかり。
里は距離をあらわす単位であり、日は時間をあらわす単位です。
後の隋書に「夷人不知里數但計以日」(東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。)と書かれるように、もし魏使が直接に計ったものであるならば日数での記録はおかしいでしょう。
また、不彌國までは100里しか離れていない千余家しかない小国のことまで記述しているのに対し、水行二十日と水行十日陸行一月ではその間の国がまったく出てこないのは不可思議といえるでしょう。
はたして20日の水行ではどこにも寄港しなかったのでしょうか、水行十日陸行一月では上陸した場所はどこかの国の港ではなく、何もないようなところに船を乗り捨てるように上陸したとでも言うのでしょうか。さらに陸行一月はわざと国をさけて歩いたのでしょうか。
このように、水行二十日と水行十日陸行一月を行程記事としてみると、そこには矛盾といってもよい程の非常に大きな疑問が残ることになるのです。
# ここで一つ注意。日数記事をもって魏使が邪馬臺國に行っていないという考えは間違い、倭人伝全体を読めば詳しい記述から邪馬臺國まで行っていることは明らかです。行っていないという説は行程記事の部分しか見ていない説と言ってよいでしょう。
これらについて少し補足しておこうと思います。
私の考えはこの2つの文は行程記事ではないとして外してあるわけですが、その理由としては次のような考えからです。
不彌國までの里程からいきなり日数による距離表示になることの引っかかり。
里は距離をあらわす単位であり、日は時間をあらわす単位です。
後の隋書に「夷人不知里數但計以日」(東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。)と書かれるように、もし魏使が直接に計ったものであるならば日数での記録はおかしいでしょう。
また、不彌國までは100里しか離れていない千余家しかない小国のことまで記述しているのに対し、水行二十日と水行十日陸行一月ではその間の国がまったく出てこないのは不可思議といえるでしょう。
はたして20日の水行ではどこにも寄港しなかったのでしょうか、水行十日陸行一月では上陸した場所はどこかの国の港ではなく、何もないようなところに船を乗り捨てるように上陸したとでも言うのでしょうか。さらに陸行一月はわざと国をさけて歩いたのでしょうか。
このように、水行二十日と水行十日陸行一月を行程記事としてみると、そこには矛盾といってもよい程の非常に大きな疑問が残ることになるのです。
# ここで一つ注意。日数記事をもって魏使が邪馬臺國に行っていないという考えは間違い、倭人伝全体を読めば詳しい記述から邪馬臺國まで行っていることは明らかです。行っていないという説は行程記事の部分しか見ていない説と言ってよいでしょう。
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