比定地まとめ(その3)
1年ぶりの改定ですw
<梯儁ルート>
末盧國 唐津市、松浦川流域
伊都國 前原市あたり
奴國 福岡平野、那の川流域
不彌國 宇美町、須恵町あたり
投馬國 久留米(筑後川上中流域)
<張政ルート>
A國(末盧國2) 末盧國
B國(伊都國2) 小城市または多久市あたり
C國(奴國2) 佐賀市あたり
E國(投馬國2) 琉球(沖縄)
<目的地>
邪馬壹國 吉野ヶ里~筑後川下流域
2008年10月9日木曜日
報告書の復元予想
それぞれの報告書が次のようなものだったのではないかと書いてみたので、ご覧下さい。
・梯儁の報告書
四方位で国間の距離は記述なし。各国の詳細が書かれている。
郡から乍南乍東で狗邪韓國、1000余戸
南に海を渡り對馬國、3000家
南に海を渡り一大國、1000余戸
南に海を渡り末盧國、4000余戸
東に伊都國、1000余戸
東に奴國(※1)、20000余戸
東に不彌國、1000家
南に投馬國、(※2)
南に邪馬壹國、推定70000余戸(※2)
自郡至女王國萬二千餘里
※1)奴國までの行程がおそらく水行
※2)投馬國と邪馬壹國との合計で70000余戸なのではないだろうか
・張政の報告書
八方位で国間の距離。
郡から韓国を海岸沿いに7千里行き、南東に1000余里海を渡って對馬國(※3)
南に海を1000余里渡り一大國(※4)
南東に海を1000余里渡り渡り末盧國(※5)
南東に陸行500里でB國(伊都國2、小城市あたり)
南東に100里でC國(奴國2、佐賀平野の嘉瀬川沿岸)
東に100里で邪馬壹國(入り口の吉野ヶ里)
南に水行20日でE國(投馬國2、琉球)、5万戸くらいらしい
倭人によれば、郡まで水行10日陸行1月
※3)郡至倭循海岸水行歴韓國七千餘里始度一海南東千餘里至對馬國、といった感じか
※4)対馬の南端からは南東、北端からくの字と進路を見ると南で良さそうなので、どちらと書かれていたかは、はっきりしていない
※5)ここも方位は南東であったか南であったかは、はっきりしていない
どちらの報告書に書かれていたのかの分離がまだはっきりしていない部分もありますが、行程記事に関しては大体この様な感じだったのではないかと、現時点では考えています。
・梯儁の報告書
四方位で国間の距離は記述なし。各国の詳細が書かれている。
郡から乍南乍東で狗邪韓國、1000余戸
南に海を渡り對馬國、3000家
南に海を渡り一大國、1000余戸
南に海を渡り末盧國、4000余戸
東に伊都國、1000余戸
東に奴國(※1)、20000余戸
東に不彌國、1000家
南に投馬國、(※2)
南に邪馬壹國、推定70000余戸(※2)
自郡至女王國萬二千餘里
※1)奴國までの行程がおそらく水行
※2)投馬國と邪馬壹國との合計で70000余戸なのではないだろうか
・張政の報告書
八方位で国間の距離。
郡から韓国を海岸沿いに7千里行き、南東に1000余里海を渡って對馬國(※3)
南に海を1000余里渡り一大國(※4)
南東に海を1000余里渡り渡り末盧國(※5)
南東に陸行500里でB國(伊都國2、小城市あたり)
南東に100里でC國(奴國2、佐賀平野の嘉瀬川沿岸)
東に100里で邪馬壹國(入り口の吉野ヶ里)
南に水行20日でE國(投馬國2、琉球)、5万戸くらいらしい
倭人によれば、郡まで水行10日陸行1月
※3)郡至倭循海岸水行歴韓國七千餘里始度一海南東千餘里至對馬國、といった感じか
※4)対馬の南端からは南東、北端からくの字と進路を見ると南で良さそうなので、どちらと書かれていたかは、はっきりしていない
※5)ここも方位は南東であったか南であったかは、はっきりしていない
どちらの報告書に書かれていたのかの分離がまだはっきりしていない部分もありますが、行程記事に関しては大体この様な感じだったのではないかと、現時点では考えています。
四方位か八方位か
前回は不彌國からの南接0里を再考し新たな見解を得たのですが、もう1つ、四方位か八方位かというところがあります。
倭人條では「東南」という方位があるため、無条件に八方位で書かれているものと思われてきました。
ところが三国志自体はほとんど四方位で書かれているようなのす。(伝聞情報ですみません)
以前から私は水行四方位、陸行八方位だったのではないかと漠然と考えてきたのですが、これも梯儁と張政の違いと捉えことができると気が付いたのです。
梯儁が四方位、張政が八方位で報告書を書いたとしたら、方位に関しては陳寿がどちらを採用したかということになります。
また急いでいた張政は、狗邪韓國に寄らずに巨済島から南東の方角に對馬國に渡ったのではないかとも考えられます。
このようなことを考えると末盧國までの行程記事もなかなか興味深くなってきます。
キーワードとしては「乍南乍東」「始度一海」「又南渡一海」あたりでしょうか、なんとなくばらばらのパッチワークのような印象を受けているところなどが、2つの別のものとするとすっきりする感じがします。
また3回の渡海で方位が1度しか出てこないのも、うまくぼかして記述しているのかと思えてきます。
もう1つ四方位と考えると私の説に都合のよい部分があります。それは不彌國以降の投馬國と邪馬壹國の位置です。
不彌國から南に大宰府あたりを抜けて投馬國、そして筑後川下流域の邪馬壹國は投馬國から見て八方位では南西の方向になりますが、四方位では南といって問題ない位置関係です。
倭人條では「東南」という方位があるため、無条件に八方位で書かれているものと思われてきました。
ところが三国志自体はほとんど四方位で書かれているようなのす。(伝聞情報ですみません)
以前から私は水行四方位、陸行八方位だったのではないかと漠然と考えてきたのですが、これも梯儁と張政の違いと捉えことができると気が付いたのです。
梯儁が四方位、張政が八方位で報告書を書いたとしたら、方位に関しては陳寿がどちらを採用したかということになります。
また急いでいた張政は、狗邪韓國に寄らずに巨済島から南東の方角に對馬國に渡ったのではないかとも考えられます。
このようなことを考えると末盧國までの行程記事もなかなか興味深くなってきます。
キーワードとしては「乍南乍東」「始度一海」「又南渡一海」あたりでしょうか、なんとなくばらばらのパッチワークのような印象を受けているところなどが、2つの別のものとするとすっきりする感じがします。
また3回の渡海で方位が1度しか出てこないのも、うまくぼかして記述しているのかと思えてきます。
もう1つ四方位と考えると私の説に都合のよい部分があります。それは不彌國以降の投馬國と邪馬壹國の位置です。
不彌國から南に大宰府あたりを抜けて投馬國、そして筑後川下流域の邪馬壹國は投馬國から見て八方位では南西の方向になりますが、四方位では南といって問題ない位置関係です。
吉野ヶ里は邪馬壹國だったw
1年ちょっとぶりの更新です。
2つのルートの行程記事を1つにして書いてしまったのではないか、
ということに気が付いてから、この自説の優位性は他の諸説を圧倒してると
思っているのですが、それでも細かいところでひっかかるところがありました。
以前、2度目である張政のルートでは
末盧國から南東500里でB國、そこから南東に100里でC國、
そして東に100里でD國でありD國を吉野ヶ里ではないかとし、
邪馬壹國をその南に接している=距離0里と考えていました。
この距離0里は「邪馬台国はなかった」の古田武彦氏の説から得ていたのですが、
やはり南接なら南接なり、実際に移動したのならその距離なりが記されるのではないか、という疑問も感じていました。
そのようなことを考えていて、ふと浮かんだのが
「張政のルートのD國はなかったのではないか?」
という考えです。
言っている意味がわかりませんねw
つまり張政のルートではC國(奴國2)から東に100里で邪馬壹國だったのではないか、ということなのです。
こう考えると目的の邪馬壹國についたのですから、それ以降の里程の記述がなくても不自然ではありません。
そして不彌國から先の行程記事が、里程記事がないために水行20日や水行10日陸行1月といったようなものになってしまっているのも理解できるのではないでしょうか。
ルートも国数も異なる2つの報告書を前に、陳寿がなるべく原文を残しつつも、なんとか1つにまとめようと苦労していた様子が浮かんでくるようなのは私だけでしょうか。
ところでタイトルのように「吉野ヶ里は邪馬壹國だった」といってしまうと語弊があります。
吉野ヶ里は邪馬壹國の一部で東の入り口だったでしょうが、そこに卑弥呼がいたというわけではないでしょう。
むしろ邪馬壹國が、かなり広い範囲を支配していた国だったと考えなければならないのでしょう。
今まで私は、当時の国は1河川流域に1つ程度のものだと思っていました。
邪馬壹國も筑紫川下流域に発展した国で、吉野ヶ里のように弥生期から発展していたところはまだ別国として独立を保っていただろうと思っていただけに、少々ひっかかりを感じています。
ここは張政が間違えた可能性を考える必要があるのかもしれませんが、現時点では邪馬壹國の一部だったと考えています。
2つのルートの行程記事を1つにして書いてしまったのではないか、
ということに気が付いてから、この自説の優位性は他の諸説を圧倒してると
思っているのですが、それでも細かいところでひっかかるところがありました。
以前、2度目である張政のルートでは
末盧國から南東500里でB國、そこから南東に100里でC國、
そして東に100里でD國でありD國を吉野ヶ里ではないかとし、
邪馬壹國をその南に接している=距離0里と考えていました。
この距離0里は「邪馬台国はなかった」の古田武彦氏の説から得ていたのですが、
やはり南接なら南接なり、実際に移動したのならその距離なりが記されるのではないか、という疑問も感じていました。
そのようなことを考えていて、ふと浮かんだのが
「張政のルートのD國はなかったのではないか?」
という考えです。
言っている意味がわかりませんねw
つまり張政のルートではC國(奴國2)から東に100里で邪馬壹國だったのではないか、ということなのです。
こう考えると目的の邪馬壹國についたのですから、それ以降の里程の記述がなくても不自然ではありません。
そして不彌國から先の行程記事が、里程記事がないために水行20日や水行10日陸行1月といったようなものになってしまっているのも理解できるのではないでしょうか。
ルートも国数も異なる2つの報告書を前に、陳寿がなるべく原文を残しつつも、なんとか1つにまとめようと苦労していた様子が浮かんでくるようなのは私だけでしょうか。
ところでタイトルのように「吉野ヶ里は邪馬壹國だった」といってしまうと語弊があります。
吉野ヶ里は邪馬壹國の一部で東の入り口だったでしょうが、そこに卑弥呼がいたというわけではないでしょう。
むしろ邪馬壹國が、かなり広い範囲を支配していた国だったと考えなければならないのでしょう。
今まで私は、当時の国は1河川流域に1つ程度のものだと思っていました。
邪馬壹國も筑紫川下流域に発展した国で、吉野ヶ里のように弥生期から発展していたところはまだ別国として独立を保っていただろうと思っていただけに、少々ひっかかりを感じています。
ここは張政が間違えた可能性を考える必要があるのかもしれませんが、現時点では邪馬壹國の一部だったと考えています。
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